日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 先ごろ発表された文化庁の2021年(令和3年)度「国語に関する世論調査」の中に、比較的新しい表現について、それを使うかどうかという質問項目があった。「ちがくて」「あの人は走るのがすごい速い」「あの人みたくなりたい」「なにげにそうした」「半端ない」「ぶっちゃけまずい」「見える化」の各表現である。
 私の場合、これらの中で「ちがくて」は使わないが、それ以外の6語については、親しい人との会話なら使うことがある。
 実際の調査の結果はインターネットで公開されているので、詳しくお知りになりたければそちらをご覧いただきたい。
 私の方はそれぞれの表現について、“辞書編集者”らしい解説を少しだけ施そうと思う。
 まず、私は使わない「ちがくて」。「昨日と言ってることがちがくてびっくりした」などと使う。これは動詞「違う」から生まれた語だが、その連用形「違い」が、「美しい」などのような形容詞と同じように「い」で終わる形をしていることから、「違くて」「違くない」「違かった」などの形で用いられるようになったと考えられている。文法的には破格だが、それが理由で私は使わないわけではない。なんとなく子どもっぽい表現に思えるからである。
 次の「すごい」は形容詞である。だが、「あの人は走るのがすごい速い」の「すごい」は副詞的に使っている、これを副詞とするか形容詞とするかは意見が分かれている。同様の語に、「H先生はえらい博識だ」などと言うときの「えらい」がある。
 「みたく」は、助動詞「みたいだ」の語幹「みたい」を「い」の形になることから形容詞と考えて、形容詞型に活用させた語である。『辞典〈新しい日本語〉』(井上史雄・鑓水兼貴編)に拠ると、「東北・北関東では昔からのことばで、北から東京に入ってきた」という。
 「なにげに」は、副詞の「なにげない」から生じた語である。「なにげない」の「ない」は、形容詞や形容動詞の語幹などに付いて形容詞をつくり、その意味を強調する働きをする接尾語である。「あどけない」「切ない」の「ない」と同じである。「なにげに」は、「なにげない」の「ない」を否定の形容詞と考え、「ない」は本来省略できないにもかかわらず省略して「に」に変え、副詞としたものと考えられる。ただし、これについては諸説ある。『岩波国語辞典』は、「なにげに」は「一九八五年ごろからの誤用から広まった」としている。“誤用”だったのだろうか・・・
 「半端ない」は、2018FIFAワールドカップがロシアで開催された際に、初戦コロンビア戦で活躍した大迫勇也選手に対して、「大迫半端ない」という称賛が起こり広まった。ただ、「半端ない」はもともと2009年の高校サッカーで大迫選手が所属する鹿児島城西高に負けた滝川二高の選手が、「大迫半端ないって。あいつ半端ないって」と言ったことから、ファンの間で大迫が試合で活躍したときに使われる称賛のことばだったらしい。
 「ぶっちゃけ」は、俳優の木村拓哉さんが2003年に放映されたテレビドラマ「GOOD LUCK!!」で使ったことから一般化したと考えられている。「ぶっちゃけ」は「ぶちあける(打明)」を強めて言った「ぶっちゃける」の名詞化である。本当のことを言うと、といった意味である。
 「見える化」は、「可視化」と意味は近いが、特に企業活動で、業務の流れを映像や図表などによって誰にでもわかるように表すことを言う。1998年にトヨタ自動車の岡本渉 (わたる)氏 が発表した「生産保全活動の実態の見える化」に登場してから次第に広まったと考えられている。
 それぞれの語は成り立ちや意味も異なり、「国語に関する世論調査」でも使う使わないの割合も異なる。だが、いずれも定着しそうな語で、俗語ではあるが多くの辞典に載りそうな語だと思われる。

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 私が編集にかかわっている『日本国語大辞典(日国)』では、インターネットで読者に用例の提供を呼びかけている(「日国友の会」)。あるときそこに投稿された用例に目を通していて、とてもうれしい用例を見つけた。「いわし鍋」という語の用例である。
 イワシを使った鍋が好きなのかと思われそうだがそうではない(イワシは好きだが)。「いわし鍋」とは、イワシを煮た臭いは鍋に残ってなかなか消えないところから、縁の絶ちがたい間柄をいう語である。「いわし煮(に)た鍋」とも言うらしい。
 「日国友の会」に投稿された例は、曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』の次のような例だ。

「和主(わぬし)と己等(おら)は鰯鍋(いはしなべ)、内証の事には蓋をして、移香立ぬ術(すべ)もあらん」(第四輯・第三十四回)

 この「いわし鍋」は、どう見ても鍋料理ではない。『八犬伝』の登場人物の関係を述べると長くなるので省略するが、山林房八が八剣士の一人犬田小文吾との関係を述べているところである。縁の絶ちがたい間柄、すなわち腐れ縁であると。
 実は「いわし鍋」も「いわし煮た鍋」も、国語辞典では『日国』にしか載っていない。しかも「いわし鍋」の方は、方言項目で、解説は「いわし煮た鍋」に委ねられている。「いわし煮た鍋」は江戸時代の例が4例引用されていて一般語扱いだが、方言欄もある。そこでは以下のように説明されている。

 「遠縁の親族。《いわし煮た鍋》盛岡†054 秋田県鹿角郡132 新潟県361 《いわしなべ》茨城県稲敷郡062 北相馬郡195」

数字は方言項目の元になった各地の方言資料の出典番号で、†は近世の資料であることを示している。
 『八犬伝』の例がうれしいというのは、「日国友の会」に投稿される用例は、近世以前の例は比較的珍しく、しかもこの例は『八犬伝』のような有名作品の例だからである。そしてこの例により、「いわし鍋」は「いわし煮た鍋」と同じように用例付きの一般語扱いとなり、方言扱いではなくなるのである。このようなことはそう多くない。
 ところで、「いわし鍋」「いわし煮た鍋」ともに、その臭いのせいで生まれた語だといえる。そのせいだろうか、平安時代の貴族はイワシを下賤の者が食べるものとして食さなかったようだ。以下は、それに関していささか蛇足である。
 鎌倉中期の説話集『古今著聞集』には、平安後期の政治家で音楽家だった藤原師長(もろなが)が、弟子の藤原孝道(たかみち)が言いつけにそむいて参上しなかったときに、麦飯にイワシをおかずに付けて食べさせたという話が載っている。下賤の者が食べるイワシを食べさせて、懲罰として屈辱感を味わわせようということのようだ。もっとも、孝道は空腹だったのでそれをペロリと平らげて、なんの効果もなかったようだが。
 時代が下るとイワシの地位は変わってくる。『猿源氏草紙』という室町末期の御伽草子には、こんな話が載っている。和泉式部がイワシを食べているところに夫の藤原保昌(やすまさ)が来たので、和泉式部は恥ずかしく思って、うろたえてイワシを隠したというのだ。保昌から、何を隠したのかと強く問われた和泉式部は、石清水八幡の託宣の歌を用いて、日本で大切に祭られている石清水八幡宮に参らない人はないと思われるように、日本で大切にもてはやされているイワシを食べない人もいないでしょうと答えたのである。これを聞いた保昌は、イワシは肌をあたため、ことに女性の顔色をよくする「薬魚(くすりうお)」だから、召しあがったのをとがめたとは悪かったと言うのである。
 室町時代の御伽草子なので創作だろうし、平安中期に生きた和泉式部がイワシを食べたとは思えないが、この時代になるとイワシは「薬魚」だと認識されるようになったのかもしれない。おおいにその地位が上がったわけだ。
 二つの説話を読みくらべてみると、時代とともにイワシの地位が変化したことがわかりおもしろい。

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 「シーン」は、物音や話し声が聞こえず、あたりが静まりかえっているさまを表す語である。辞書の見出しは「しいん」だが、「シーン」と書かれることが多いかもしれない。ただここでは話の都合上、「しいん」と表記する。
 なぜ静まりかえったさまを「しいん」と表現するのか。音がしなくても空気の振動を鼓膜が感じて、そのように聞こえているからだという説があるらしい。だが真偽は別として、「しいん」という語自体は、鼓膜が感じる音を直接表現したものではないだろう。
 あたりが静まりかえっているさまを表す語は、古くから、「しいん」の他にも、「しん」「しんしん」「しんかん」などがあるからだ。「しいん」「しん」は漢字で書かれることはないが(「蕭然」「寂然」などに「しん」とふりがなを振った例はある)、「しんしん」は「森々」「深々」、「しんかん」は「深閑」「森閑」と書かれる。いずれも「しん」で共通するので、何らかの関係があるのかもしれない。
 『日本国語大辞典』によれば、「しん」と「しいん」では、「しん」の例の方が古い。

 *俳諧・毛吹草〔1638〕一「春をしたへる哥や案ずる お座敷は三月しんとしづまりて」

 春を慕う歌をあれこれ考えていて、3月の座敷は静まりかえっているという意味だろう。
 「しいん」の方は、『日国』を見る限り、大正になってからの例が最も古い。

 *末枯〔1917〕〈久保田万太郎〉「四辺(あたり)はシインとして来る」

 後発の「しいん」は、「しん」を強調して生まれた語だろう。
 「深々」は、『日国』によれば、「奥深く静寂なさま。ひっそりと静まりかえっているさま。森森(しんしん)」とあり、

 *平家物語〔13C前〕二・一行阿闍梨之沙汰「冥々として人もなく、行歩(かうほ)に前途まよひ、深々として山ふかし

の例が最も古い。
 ただ『平家物語』のこの例は、解釈が分かれている。『日国』で使用した『平家物語』の底本は、岩波書店の「日本古典文学大系」で、この本文は龍谷大学本によっている。大系本ではこの「深々」の頭注に、「正しくは森々か。樹木が生い茂ること」とある。
 龍谷大学本は、南北朝期の代表的な琵琶法師覚一が書き遺した、覚一本と呼ばれる語り本系の伝本である。
 覚一本は広く読まれたようで、小学館の『日本古典文学全集』も同じ覚一本系の高野本(東京大学国語研究室蔵)を底本にしている。こちらも「深々として山ふかし」だが、やはり頭注に板本の元和版が「森々」なので、「ここは『森々』か」とある。
 つまり、底本のまま「深々」と考え、「奥深く静寂なさま、ひっそりと静まりかえっているさま」の意味だとする『日国』と、「深々」ではなく「森々」が正しく樹木が生い茂っているさまという意味ではないかとする大系や全集と、異なった二つの解釈があるわけだ。
 『日国』の用例部分にかかわった者としてひと言述べさせていただくと、『日国』では基本的に誤記説は採らない。底本の表記を尊重するようにしているのだ。従ってこの場合は底本通り「深々」と判断する。
 またこれは素人考えながら、『平家物語』のこの例は、真っ暗なので人もなく、行く手もわからぬ道をさまよい歩いて行くということである。だとすると、「森々として山ふかし」で山は樹木が生い茂って深いと解釈するよりも、山はひっそりと静まりかえって深いと解釈した方がよさそうな気がするのだがいかがだろうか。
 また、「森々」は、樹木が高く生い茂ったさまをいうが、「深々」と同じように、あたりがひっそりと静まりかえっているさまを表すこともある。『日国』にはその意味の例も3例引用されている。「深々」「森々」は音が同じこともあって、意味が交錯しているのだろう。
 そして興味深いのは、「深」「森」という漢字には、元来「しずか」という意味はないことである。やはりひっそりと静まりかえっているさまを表す「森閑」「深閑」という語はあるが、これは「閑」が「しずか」という意味である。
 「しん」「しいん」がなぜ「しずか」という意味になったのか、俳諧『毛吹草(けふきぐさ)』ではないが、考えれば考えるほど「しんとしずまり」かえってしまいそうだ。

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 他の語について形容詞を作る接尾語の一つに「っぽい」がある。「子どもっぽい」「白っぽい」「俗っぽい」「飽きっぽい」などの「っぽい」である。「ぽい」の形でも使われるが、通常は促音「っ」の入った「っぽい」の形で使われることが多い。
 『日本国語大辞典(日国)』では、「っぽい」を4つの意味に分けて説明している。

(1)名詞に付いて、それを含む度合いが大きい、それによく似た性質である、の意を表わす。多くは、好ましくないことについていう。
(2)色の名に付いて、その色を帯びているの意を表わす。
(3)形容詞・形容動詞の語幹に付いて、その性質が表面に現われている、いかにもそういう感じであるの意を表わす。好ましくないことについていう。
(4)動詞の連用形に付いて、すぐに…する傾向が強い、の意を表わす。好ましくないこと についていう。

 冒頭で掲げた語例では、(1)「子どもっぽい」、(2)「白っぽい」、(3)「俗っぽい」、(4)「飽きっぽい」ということになる。(2)以外は、「好ましくないことについていう」といった補足説明があるが、なぜそのような意味になるのかよくわからない。そもそも、この「っぽい」がどうして生まれたのかもよくわからない。ただ、「飽きっぽい」は滑稽本『浮世風呂』(1809~13年〕の、「荒っぽい」には雑俳『柳多留・一五編』(1780年)の例があるので、江戸時代から使われていたことだけは確かである。
「っぽい」は造語力が強いらしく、「~っぽい」という語を盛んに増殖させている。どれくらい造語力が強いかというと、固有名詞とも結びついて「神永っぽい」などと言うこともあるくらいだ。もっともこの手の語が辞典に載ることは絶対にないが。
『日国』の編集委員だった松井栄一先生は、この「っぽい」の付く語は積極的に『日国』に載せるべきだと考えていたようだ。
 御著書の『国語辞典にない言葉』(南雲堂 1983年)、『続・国語辞典にない言葉』(南雲堂 1985年)を見ると、『日国』第一版で立項はされているものの用例が無い、あるいは1つだけしか用例の無い語や、「寒っぽい」「涙っぽい」のようなやや特殊な語について、第一版刊行後採集した用例を紹介している。これらの用例は、その後刊行された第二版でほとんど反映されている。
 現在、『日国』の第二版には数え方にもよるが、末尾に「っぽい」「ぽい」が付く語は128語ある(方言も含む)。ただ、現時点でも用例のない語がいくつかある。松井先生は2018年に逝去されたので、それらの語の用例を探し出すことは、後を引き継いだ者の使命だと考えている。
 同時に、第二版では立項されていない「っぽい」の付く語を増補することも忘れてはならないだろう。収録できなかった語がまだ見つかるからだ。
 たとえば、徳田秋声の『縮図』(1941年)という小説には、「人情っぽい」(素描・四)がある。また、やはり徳田秋声の『仮装人物』(1935~38年)には「濁りっぽい」(一七)がある。
 太宰治は、『音に就いて』(1937年)というエッセーの中で、「ごみっぽい」を使っている。この「ごみっぽい」は『日本方言大辞典』(小学館)によれば、長野県佐久地方の方言である。太宰は津軽出身だから、太宰の「ごみっぽい」は方言ではなく太宰が普通に使っていた語なのかもしれない。確かに日常会話の中でそのように言ってもおかしくはない。
 「っぽい」の付く語は、集中的に探せばさらに見つかりそうだ。松井先生がご存命だったら、用例があるのなら積極的に『日国』に載せようよ、とおっしゃるに違いない。

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 仕事で、三重県桑名市に行く機会があった。伊勢湾に面している桑名は、何よりもハマグリの産地として知られている。特に「焼き蛤」が有名だ。ただし近年は干潟の減少により、水揚げ量は激減しているらしい。
 桑名の焼き蛤がどれほど有名かというと、昔から「その手は桑名の焼き蛤」という語があるくらいなのである。『日本国語大辞典』には、以下のような例が引用されているので、江戸時代から知られていたらしい。

*洒落本・品川楊枝(しながわようじ)〔1799〕「又はづさうと思って、其手はくはなのやき蛤(ハマクリ)、四日市夜のつきゑゑだア」

 「その手は桑名の焼き蛤」は、「食わない」の「くわな」と地名の「桑名」とを言いかけ、さらにそれを桑名名物「焼き蛤」とした語である。その手にはのらないという意味のしゃれである。
 このような語呂によってもとの文句をもじっていう語を、「無駄口」などという。相手のことば尻をとらえて茶化したり、まぜかえしたりするときや、自分の言おうとしていることばをストレートには言わずに、おどけてみせるときなどに使う。
 映画「男はつらいよ」で、渥美清が演じたフーテンの寅さんが啖呵売(たんかばい)で言う、「結構毛だらけ猫灰だらけ」も「無駄口」の一種である。しかもこれは、同音の「け」で始まる語と、末尾が「け」となる語を重ねただけなので、まさに意味のない「無駄口」である。寅さんはこの後、「見上げたもんだよ屋根屋(やねや)の褌(ふんどし)」と続けていた。寅さんはいささかお上品なようで、「見上げたもんだよ屋根屋の金玉(きんたま)」と言うこともある。褌の中から・・・ということである。
 かつて私は、このような「無駄口」を集めて1冊の辞典が作れないかと企んだことがあった。だが、その野望はいとも簡単に打ち砕かれた。調べてみると、この手の語はそれほど多く集められなかったからである。
 2004年に『日本語便利辞典』という、辞典の付録に載せるような内容のものを集めた辞典を編集したことがある。そこに30語ほどの「無駄口」を収録したのだが、それが私が集められた主なものだった。これだけではとても一冊の辞典にはならない。
 だがどうしても諦めがつかず、もう少し範囲を広げて、「しゃれことば」とでも呼べそうな語を集めてみることにした。今は使わなくとも、江戸時代には使われていた語も合わせて探してみた。
 たとえば、「からすの昆布巻(こぶまき・こんまき)」というのがある。カラスの鳴き声を「かかあ(嚊)」にかけ、それに巻かれるの意でかかあ天下、恐妻家のことをいうしゃれである。
 「くろいぬのお尻(いど)〔尻(けつ)〕 」などというのもある。黒犬だから「尾も白くない」「尾も白うない」に「面白うない」をかけたしゃれである。
 「御浦山吹日陰紅葉」は「おうらやまぶきひかげのもみじ」と読むのだが、「羨(うらや)ましい」を「浦山」にかけ、「日陰の身」を「日陰の紅葉」にかけたしゃれで、自分の境遇にくらべて他を羨む気持ちを表す。
 「御髭(おひげ)の塵助(ちりすけ)」のように人名めいた語もある。 「御髭の塵を払う」から、人にこびへつらう者のことをいう。
 きりがないのでこの辺でやめておくが、集めただけで、結局形にはできなかった。このような語をいったいだれが面白がるんだ?と次第に熱が冷めてしまったことが最大の理由であった。
 とはいうものの、今でもつい口に出して言いそうな無駄口はある。

「ありが鯛(たい)なら芋虫(いもむし)ゃ鯨(くじら)」
「ありがたい」というしゃれ。「あり」に蟻、「たい」を鯛にかけてその大きさの違いをいった語である。
「来たか長(ちょう)さん待ってたほい」
とうとうお出でなさったかという軽口である。「長さん」に意味はない。

 こちらもキリがなさそうだ。
 桑名の赤須賀という漁港でおいしい焼き蛤を食べながら、「無駄口」のことをつい思い出したのである。

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