1. わ の 五王(ごおう)
日本国語大辞典
中国の史書の「宋書‐倭国伝」などにみえる五人の倭の国王。五世紀中、南朝に対して使いを送り、方物を貢献したという讚・珍・済・興・武のこと。それぞれ天皇の名を中国的
2. 倭の五王
日本大百科全書
、珍↔珎↔弥↔彌などの字形の類似から生じた誤写にすぎず、いずれも同一の王をさすとみてよい。 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始ま
3. 倭の五王画像
世界大百科事典
5世紀に中国南朝と交渉をもった5人の倭国王。倭の五王と中国南朝との交渉は,421年,倭讃が宋に使者を派遣したことから始まった。宋の武帝は倭讃の朝貢を喜び,これを
4. わのごおう【倭の五王】
国史大辞典
その確定にはなお慎重な検討が必要である。 [参考文献]笠井倭人『研究史倭の五王』、坂元義種『古代東アジアの日本と朝鮮』、同『倭の五王―空白の五世紀―』、小尾孟夫
5. 飛鳥時代
世界大百科事典
581年中国において隋による統一国家が実現し,東アジアの情勢が変化したのを契機に,日本の対外政策は転換し,倭の五王以来約1世紀の間中絶していた中国との国交が再開
6. あんこうてんのう【安康天皇】
国史大辞典
また書紀には外交関係記事のないのが特色である。いずれにせよ、五世紀半ばの在位は確実と思われる。→倭の五王(わのごおう) (平野 邦雄) 菅原伏見西陵(すがわらの
7. あんとうしょうぐん【安東将軍】
国史大辞典
請求したが認められず、昇明二年(四七八)倭王武に至って、自称のとおり安東大将軍が認められた。→倭の五王(わのごおう) [参考文献]『宋書』百官志・夷蛮伝 (末松
8. いちのべのおしはのおうじ【市辺押磐皇子】
国史大辞典
命」などとあり、即位説もあるが、この称号は後世皇子を尊んでの追号であろう。五世紀の大和朝廷は倭の五王たちが盛んに対外交渉をした時代だが、反面朝廷内部では外戚葛城
9. いんぎょう‐てんのう[‥テンワウ]【允恭天皇】
日本国語大辞典
みこと)。「古事記」によれば大和遠飛鳥宮(やまととおつあすかのみや)に都を定めた。「宋書」の倭の五王の「済」にあたるとされている。イン
10. いんぎょうてんのう【允恭天皇】
国史大辞典
年を四四三年にあてる説は、「大王」を允恭、「男弟王」を大草香皇子とするがこれは疑問である。→倭の五王(わのごおう) [参考文献]水野祐「隅田八幡神社所蔵鏡銘文の
11. 応神天皇
世界大百科事典
記されているなど,原帝紀に記載されていた可能性がつよく,現実性あるものとみなされ,《宋書》の倭の五王のはじめの讃(さん)を応神か仁徳にあてる説もあり,また応神紀
12. おうじんてんのう【応神天皇】画像
国史大辞典
いることなども考え合せて、応神朝を河内から出た新王朝とみる説も出されている。『宋書』にみえる倭の五王の最初の倭王讃を応神天皇とする説もあるが、もし讃が次代の仁徳
13. おうじんてんのう【応神天皇】
日本架空伝承人名事典
応神天皇からは諱が記されているなど、原帝紀に記載されていた可能性がつよく、現実性あるものとみなされ、『宋書』の倭の五王のはじめの讃(さん)を応神か仁徳にあてる説
14. かいこういぜん【開港以前】 : 日朝関係
国史大辞典
この間に中国では、五胡十六国・南北朝を経て、隋(五八一年)・唐(六一八年)の成立をみる。南北朝の宋には倭の五王が入貢して冊封をうけたが、五世紀後半から一世紀余り
15. かいのくに【甲斐国】山梨県
日本歴史地名大系
となっているのも、そうした史実を反映しているものかもしれない。しかしその後の一世紀、いわゆる倭の五王の時代に、ヤマトの王権の地方政権に対する優位の態勢は着々進み
16. かんじ【漢字】
国史大辞典
読書人の専有物であった漢字を、はじめて庶民が手中に収めたのである。 〔日本および周辺国家への影響〕 日本では倭の五王のころ、大和朝廷の権力を確立するために中国江
17. がいこう【外交】
国史大辞典
日本の主権者が中国皇帝から日本国王として冊封を受けて君臣の関係を結んだのは、南朝の宋に対する倭の五王の場合と明に対する足利政権の場合であるが、隋・唐に対する場合
18. 帰化人
世界大百科事典
に入ったころから,中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人などが渡来するようになり,また〈倭の五王〉の南朝通好に伴って中国から直接に渡来する人,さらに6世紀中
19. きかじん【帰化人】
国史大辞典
ところがこれに対して五世紀後半から中国の南朝文化を身につけた百済・任那人などが渡来するようになり、また倭の五王の南朝通好に伴って直接に南朝からごく少数の中国人の
20. 記紀批判
世界大百科事典
一方,応神以降の帝紀の内容・系譜は,後世の籍帳などにみえる御名代(みなしろ)(王名をつけた部)の存在や倭の五王の比定などにより,信じられると考えられてきた。近年
21. 紀年論
世界大百科事典
考えられるからである。したがって那珂説で得られた神功,応神朝の年代を定点に各崩年干支を配分,倭の五王の比定とも勘案して天皇の在位年数を推定するのが,その後の紀年
22. きんせい【近世】 : 日中関係
国史大辞典
ぶんろく・けいちょうのえき),→明(みん),→邪馬台国(やまたいこく),→倭寇(わこう),→倭の五王(わのごおう)
23. 百済(くだら 朝鮮)画像
日本大百科全書
分封した。地方住民への権威づけのため、宋そう(南朝)などに、王だけでなく家臣の称号を求めた。このとき倭の五王が宋に求めた軍号は、百済王のそれよりつねに低位で、倭
24. 呉(くれ 中国)
世界大百科事典
内容とは著しく違っているが,そこに日本の対中交渉の残像がうかがえることはほぼ誤りあるまい。→倭の五王坂元 義種 呉氏 句呉 高句麗
25. くれ【呉】
国史大辞典
るように思われるが、いずれにせよ五世紀には江南地方との通交が密であったらしい。→呉(ご),→倭の五王(わのごおう) (黛 弘道)
26. くれ【呉】 : 呉/(二)
国史大辞典
るように思われるが、いずれにせよ五世紀には江南地方との通交が密であったらしい。→呉(ご),→倭の五王(わのごおう)
27. 遣隋使画像
世界大百科事典
大和朝廷と中国の王朝との公式な交渉は〈倭の五王〉時代からあった明証が中国の史籍に見いだされる。このころの交渉には多かれ少なかれ,朝鮮半島における外交問題を伴って
28. こう【興】
国史大辞典
⇒倭の五王(わのごおう)
29. こだい【古代】画像
国史大辞典
四一三年になると『晋書』四夷伝に倭が東晋に朝貢したことがみえ、その後『宋書』夷蛮伝に讃・珍(弥)・済・興・武の倭の五王が、相ついで南朝の宋に使節を派遣したことが
30. こだい【古代】 : 日中関係
国史大辞典
楽浪・帯方二郡の消滅や、五胡十六国時代の紛争のため、両者の関係を示す記録はないが、五世紀になるといわゆる「倭の五王」の遣使の記録が『宋書』に残されている。これは
31. こだいこっか【古代国家】
国史大辞典
四・五世紀の古墳文化をいかに位置づけるか、『宋書』夷蛮伝倭国条(『宋書倭国伝』)などに登場する五世紀の倭の五王(讃・珍・済・興・武)の段階をどう評価するか、いわ
32. さい【済】
国史大辞典
⇒倭の五王(わのごおう)
33. さくほう【冊封】
国史大辞典
利用する傾向があった。三世紀の邪馬台国女王卑弥呼が「親魏倭王」に封ぜられたことや、五世紀のいわゆる「倭の五王」が朝鮮半島に勢力を伸ばし、高句麗・新羅・百済の三国
34. さん【讃】
国史大辞典
⇒倭の五王(わのごおう)
35. せっつのくに【摂津国】大阪府地図
日本歴史地名大系
朝鮮や中国の進んだ文物や渡来の人々も、多くはこの津を経由して畿内の地に受入れられたであろう。また倭の五王として中国の史書に知られる王たちの使者も、主として難波津
36. 宋(中国,南朝)
世界大百科事典
宋のこの外交政策からみたとき,倭国の利用価値はうすい。倭国王の地位の低さはここに原因があろう。→倭の五王坂元 義種 Sòng(宋,南朝) 劉裕 元嘉の治 蕭道成
37. そうしゅこく【宗主国】
国史大辞典
古くは邪馬台国女王卑弥呼が「親魏倭王」の称号をうけたのをはじめとし、中国の南北朝時代の宋のとき、倭の五王がそれぞれ冊封された例と、十五世紀の明のとき、足利義満が
38. 宋書倭国伝
世界大百科事典
と諸国の交渉記事に限定されている。倭国伝もこの特色をもち,ほぼ宋朝と倭国との交渉(いわゆる〈倭の五王〉の朝貢,それをふまえた宋朝による任官)記事で占められている
39. たいがいかんけい【対外関係】 : 古代
国史大辞典
四一三年になると『晋書』四夷伝に倭が東晋に朝貢したことがみえ、その後『宋書』夷蛮伝に讃・珍(弥)・済・興・武の倭の五王が、相ついで南朝の宋に使節を派遣したことが
40. ちゅうせい【中世】 : 日中関係
国史大辞典
両国の交易をその所持者のみに限定した(勘合貿易)。足利義満が中国の皇帝から冊封を受けたことは、五世紀の倭の五王以後はじめてのことであった。これによって倭寇はいっ
41. ちん【珍】
国史大辞典
⇒倭の五王(わのごおう)
42. ちんとうだいしょうぐん【鎮東大将軍】
国史大辞典
⇒倭の五王(わのごおう)
43. 貞丈雑記 3 332ページ
東洋文庫
近代としてそれらを除くことにする。もっとも、文字伝来以前も一世紀以来倭の諸王がしばしば中国に使者を派し、殊に倭の五王の屡次の上表の件は史実に明らかなところであり
44. てんのう【天皇】画像
国史大辞典
か、見解が多岐に分かれている。四世紀の倭の状況は中国の正史から窺えないが、『宋書』に五世紀の倭の五王、讃・珍(『晋書』では弥)・済・興・武が順次朝貢したとの記事
45. てんのうのきげん【天皇の起原】 : 天皇
国史大辞典
か、見解が多岐に分かれている。四世紀の倭の状況は中国の正史から窺えないが、『宋書』に五世紀の倭の五王、讃・珍(『晋書』では弥)・済・興・武が順次朝貢したとの記事
46. 長原(ながはら)遺跡[考古学]
情報・知識 imidas
この工房は4世紀末~5世紀初めに築造した方墳を壊して設置し、工房建物をコ字形の溝で囲っていた。大王(倭の五王)あるいはその配下の有力者が直轄して、朝鮮半島の最新
47. 南朝
世界大百科事典
寒門層あるいは寒人層の台頭がしだいにめだち,梁末に起こった侯景の乱はその趨勢を決定的にした。倭の五王が使者を派遣して交渉をもったのは,宋,斉,梁の南朝諸王朝であ
48. にっちゅうかんけい【日中関係】
国史大辞典
楽浪・帯方二郡の消滅や、五胡十六国時代の紛争のため、両者の関係を示す記録はないが、五世紀になるといわゆる「倭の五王」の遣使の記録が『宋書』に残されている。これは
49. にっちょうかんけい【日朝関係】
国史大辞典
この間に中国では、五胡十六国・南北朝を経て、隋(五八一年)・唐(六一八年)の成立をみる。南北朝の宋には倭の五王が入貢して冊封をうけたが、五世紀後半から一世紀余り
50. 日本(にほん)画像
世界大百科事典
人,倭王,倭賊などと記している。そこで大和政権の代表者も,中国と交渉するときには,5世紀の〈倭の五王〉のように,国書に〈倭国王〉と記するようになった。しかし中国