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  11. 平岩親吉

平岩親吉

ジャパンナレッジで閲覧できる『平岩親吉』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

平岩親吉
ひらいわちかよし
一五四二 - 一六一一
戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のもとにあった時からその側にいた。永禄三年(一五六〇)家康が岡崎城に自立した後も馬廻衆として側近に侍し、同六年三河一向一揆の時は浄土真宗の信徒であったが一揆に加わらず、家康方にあって勇戦した。家康に長子信康が生まれてからはその傅となっていた。天正七年(一五七九)信康が自殺せしめられて一旦は幽居。家康に請われて再び出仕し、信康の従士十四人を付属せしめられたという。これより親吉は家康側近の有力武将への途を歩む。同十年本能寺の変の直後、家康が従来の三河・遠江・駿河に加えて信濃半国と甲斐国を手に入れたとき、甲斐郡代となる。同十三年十一月十三日に岡崎城留守石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔した時、親吉は家康の命を受けて武田氏の国法および軍法を調査した。この上書にもとづき同年十二月六日に定められた新しい軍法では、大久保忠世・酒井忠次・大須賀康高・榊原康政・井伊直政・石川家成らとともに八人の侍大将の一員に任じられている。同十六年四月従五位下主計頭に叙任。同十八年小田原攻めには本多忠勝・同忠政・鳥居元忠・植村泰忠とともに武蔵国岩槻城を攻囲し、落城させ、同年家康の関東入国後は上野国厩橋(まやばし)城城主として三万三千石を領した。慶長六年(一六〇一)二月甲斐国に転封して三万石を加増、新たに府中城を築いた。同八年家康の九男義直が甲斐国を与えられたとき義直の附家老となって国政を沙汰した。同十二年閏四月、義直が尾張国に転じると、親吉も府中から同国犬山に転じ六万石を加増、すべて十二万三千石余を領した。親吉は当初は清須城で、また同十五年義直が家康の膝下から名古屋城に移った後はその二ノ丸に住み、義直に代わって国政をみていたが、同十六年十二月三十日没した。七十歳。法名は越翁休岳平田院。三河国碧海郡桑子村(愛知県岡崎市大和町沓市場)の妙源寺に葬る。後嗣なく平岩氏の嫡流は改易となった。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ九 慶長十六年十二月三十日条、『寛政重修諸家譜』一一七六、北島正元『江戸幕府の権力構造』、藤野保『新訂幕藩体制史の研究』
(所 理喜夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)

平岩親吉
ひらいわちかよし
[1542―1611]

安土桃山・江戸前期の武将。通称七之助、主計頭 (かずえのかみ)。徳川家康と同年の生まれで、幼少より徳川家康に仕え、各地を転戦。家康の長男信康 (のぶやす)の傅役 (もりやく)となったが、1579年(天正7)信康切腹により一時幽居。1590年上野国 (こうずけのくに)厩橋 (うまやばし)城主となり、3万3000石を領有した。家康八男仙千代を養子とするが、夭折 (ようせつ)。関ヶ原の戦後に甲府城代(領知6万3000石)。家康の九男義直 (よしなお)の傅役となり、義直の甲府から清洲 (きよす)への転封 (てんぽう)で犬山城主(12万3000石、一説に9万3000石)となり、引き続き領国統治。無嗣断絶。

[下村信博]



世界大百科事典

平岩親吉
ひらいわちかよし
1542-1611(天文11-慶長16)

江戸初期の徳川家武将。幼名七之助。三河の人。父は親重。主計頭。家康と同年で幼時より近侍し,数次の合戦に武功をたて,家康の長男信康の傅(もり)役となった。上野厩橋(まやばし)3万3000石を領し,のち甲斐へ転封。1603年家康の子義利(義直)に付属され,07年その尾張移封により,同国国政をとって犬山9万3000石,一説に12万3000石を受けた。死後,無子絶家。
[林 董一]

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1. 平岩親吉
日本大百科全書
安土桃山・江戸前期の武将。通称七之助、主計頭かずえのかみ。徳川家康と同年の生まれで、幼少より徳川家康に仕え、各地を転戦。家康の長男信康のぶやすの傅役もりやくとな
2. 平岩親吉
世界大百科事典
1542-1611(天文11-慶長16) 江戸初期の徳川家武将。幼名七之助。三河の人。父は親重。主計頭。家康と同年で幼時より近侍し,数次の合戦に武功をたて,家康
3. ひらいわちかよし【平岩親吉】画像
国史大辞典
一五四二―一六一一 戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野
4. ひらいわ-ちかよし【平岩親吉】
日本人名大辞典
1542−1612* 戦国-江戸時代前期の武将。天文(てんぶん)11年生まれ。幼時から徳川家康につかえ,家康の長男信康の守役(もりやく)をつとめる。小田原攻めで
5. 平岩親吉印[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
6. 平岩親吉花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
7. あまがたじょうあと【天方城跡】静岡県:周智郡/森町/向天方村
日本歴史地名大系
に奪われて久野弾正宗政が城将として入った(「校訂松平記」など)。翌年四月徳川方は反撃に転じ、平岩親吉を大将として天方城を攻め落した(「三河物語」など)。天正七年
8. いせさきはん【伊勢崎藩】
国史大辞典
天正十八年(一五九〇)徳川家康の関東入国の時、那波領には松平家乗が一万石に封ぜられたが、佐位郡内には前橋藩平岩親吉、白井藩本多康重の所領などが散在していたらしい
9. 犬山[市]
世界大百科事典
城後,城主の交代はしばしばであったが,関ヶ原の戦後,徳川一門が尾張を領するようになってからは平岩親吉,成瀬正成ら老職の居城となった。1617年(元和3)以降,高
10. いぬやまじょう【犬山城】愛知県:犬山市/犬山城下
日本歴史地名大系
転居させて三の丸に、大手方面の外回りを掘って空堀とし、次々に城の体制を整えた。「犬山里語記」には平岩親吉の代、「中切村の地を裂て町家を引移し、坂下大本町とし給ふ
11. いぬやまじょうか【犬山城下】愛知県:犬山市
日本歴史地名大系
築いた小笠原吉次は丘陵下南の七軒(間)町の住民を転居させ三の丸とし、その後次々に堀を作り、石垣を築いた。城主平岩親吉の代(一六〇七―一一)には「中切村の地を裂て
12. 犬山藩画像
日本大百科全書
庁を置く小藩。関ヶ原の戦い後小笠原吉次おがさわらよしつぐが入封。ついで1607年(慶長12)平岩親吉ひらいわちかよしが入封したが、11年嗣子ししなく断絶。一方、
13. うえだじょう【上田城】長野県:上田市/上田城下
日本歴史地名大系
た。天正一三年七月、真田昌幸と徳川家康との確執が生じ、その結果家康は、大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉の三将に保科・諏訪・下条・知久・芦田・曾根・遠山・屋代らの信
14. えうんいん【恵運院】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区/塚原村
日本歴史地名大系
忠吉書状写」寺記)。同年五月二六日の浅野長継禁制写(同書)と慶長八年(一六〇三)九月二一日の平岩親吉禁制(同書)は、領主交替に伴って発給されたものである。同年に
15. おやまむら【小山村】愛知県:一宮市
日本歴史地名大系
小山城跡があり、畑となったが江戸末期まで所在が確認できたという(府志)。城主も不詳だが一説に平岩親吉という(千秋村史)。
16. 尾張国
世界大百科事典
を領したが,幼少のため従来どおり駿府の家康の手もとにとどまり,吉次を常陸笠間に移し義直の重臣平岩親吉を入れ9万3000石を領し代わって国政を執らせた。翌年検地実
17. おわりのくに【尾張国】画像
国史大辞典
同十二年松平忠吉病没のあとをうけ、家康の九男徳川義利(のち義直)が甲斐より尾張に移封。しかし藩主幼少のため、平岩親吉がかわって国政を執り、十六年親吉病没ののちは
18. 尾張藩画像
日本大百科全書
領知すべき旨の判物を受けた。当時義直は幼少で駿府すんぷ(静岡市)の父のもとにおり、国政は傳役もりやくの平岩親吉ひらいわちかよしが代行した。清須の地は低湿で水利に
19. 尾張藩
世界大百科事典
領知すべき旨の判物を受けた。しかし当時義直は幼少で駿府の父のもとにあり,国政は傅(もり)役の平岩親吉がとった。10年名古屋築城により,清須から士民を移住させた。
20. 甲斐国
世界大百科事典
一揆により秀隆が誅滅されたあと,甲斐をねらう後北条氏との係争に勝利を得て入国した徳川家康は,平岩親吉を甲府城代に任命した。90年家康が関東に移されると羽柴秀勝が
21. かいのくに【甲斐国】山梨県
日本歴史地名大系
記」など)、河内を信君の遺児信治(勝千代)に、郡内を鳥居元忠に与え、国中は直轄領として城代を平岩親吉とし(「甲斐国志」など)、武田氏旧臣八九五人から起請文を取っ
22. 甲子夜話三篇 2 269ページ
東洋文庫
夫人猶不レ竣、治二粧具日待二減慶之報謁天正七年、信長召二参将酒井忠次一日。所レ聞如レ此。八月、令至平岩親吉→殺中夫人干岡崎加九月、使互大久保忠世→殺中世子干二股
23. かなざくらじんじゃ【金桜神社】山梨県:甲府市/旧巨摩郡地区/御岳村
日本歴史地名大系
御岳衆相原内匠助・深沢勘五郎・内藤織部ら二四名は平岩親吉に属して上野国厩橋城(現群馬県前橋市)に移り、同二〇年二月二七日後閑郷(現同上)などで知行を受けて甲斐を
24. きょうあんじ【教安寺】山梨県:甲府市/甲府城下/金手町
日本歴史地名大系
信忠の宝塔はその後三河へ引取られたという(甲斐国志)。慶長六年(一六〇一)には前年に没した甲府城代平岩親吉の養子となっていた徳川家康の八男仙千代の葬儀に際して当
25. くぼたむら【久保田村】愛知県:額田郡/幸田町
日本歴史地名大系
後期古墳が点在し、室町期の窯跡もある。中世、坂崎郷に属した。近世初頭に尾張藩の藩政を執行した平岩親吉家の系図では、親吉より四代前の重氏より当村内居住を伝えている
26. こういんじ【興因寺】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区/下積翠寺村
日本歴史地名大系
同二〇年二月一一日には加藤光泰より寺中二〇俵と山林を寄付された(「加藤光泰印判状」同書)。慶長八年(一六〇三)平岩親吉から禁制(同書)を与えられた。慶長古高帳で
27. こううんぶんむら【紅雲分村】群馬県:前橋市
日本歴史地名大系
余ハミナ農桑ヲ業トス、女男業ヲ助ケ側ラ養蚕製糸ノ業ニ従フ」とある(郡村誌)。南部に曹洞宗冷泉院があり、前橋城主平岩親吉の創建、開山は英播と伝える。本尊釈迦如来。
28. 上野国画像
世界大百科事典
封じて信越両国に備え,榊原康政を館林城10万石に封じて常陸の佐竹氏や東北に備えたのをはじめ,平岩親吉を厩橋城3万3000石,奥平信昌を宮崎城(のち小幡)2万石な
29. こうずけのくに【上野国】群馬県
日本歴史地名大系
)、館林の榊原康政(一〇万石)はともに徳川四天王に数えられる重臣であった。また厩橋(前橋)の平岩親吉(三万石)ほかも側近の譜代で、いずれも戦国期の要城に配置され
30. こうたちょう【幸田町】愛知県:額田郡
日本歴史地名大系
の夏目次郎左衛門などの城主格の武士もいた。家康側では深溝城主松平伊忠や高力の高力清長、坂崎の平岩親吉・天野康景などがおり、町域が二つの勢力に割れた。一揆鎮圧後は
31. こうふ【甲府】
国史大辞典
ぼ甲府城を完成し、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦ののち、甲斐国が再び徳川氏の領有に帰し、城代平岩親吉の手によって甲府城が修理され完成するや、その城下町として甲府
32. こうふし【甲府市】山梨県
日本歴史地名大系
現市域の村方は山梨・巨摩両郡のうちの八三ヵ村を数えた(慶長古高帳)。同八年家康の第九子五郎太(義直)が受封し、平岩親吉が甲府城代として在城。同一二年五郎太の尾張
33. こうふじょう【甲府城】
国史大辞典
続行した。甲府城を江戸城防衛の拠点とみた家康は、慶長五年(一六〇〇)浅野氏を紀伊に移して甲斐を収め、平岩親吉を甲府城代として築城を完成させた。同八年家康の九男義
34. こうふじょうあと【甲府城跡】山梨県:甲府市/甲府城下
日本歴史地名大系
、可被相触者也」とあるのは、家康が五ヵ国領有の一環として甲斐経略上の必要から築城を計画、城代平岩親吉に命じて一蓮寺のある一条小山一帯を城地として縄張りを行ったも
35. こうふはん【甲府藩】
国史大辞典
氏の属領となったが、同六月本能寺の変後、相模北条氏と戦った徳川家康の支配下となり、同年暮より平岩親吉を甲府城代とし、郡内谷村城の鳥居元忠とともに国内を統治させた
36. こじんめいむら【小神明村】群馬県:前橋市
日本歴史地名大系
東は鳥取村、北は勝沢村。天正二〇年(一五九二)二月二七日の知行書出(御嶽神社文書)によれば、前橋城主平岩親吉が甲斐の国人二四人に対し、合計三千二五俵を宛行ってい
37. ごかんむら【後閑村】群馬県:前橋市
日本歴史地名大系
、大室庄に含まれていた。天正二〇年(一五九二)二月二七日の知行書出(御嶽神社文書)によれば、平岩親吉が甲斐の国人御嶽衆二四人に対し、合計三千二五俵を宛行っている
38. さかざきむら【坂崎村】愛知県:額田郡/幸田町
日本歴史地名大系
に置かれていたことがわかる。なおこの道場は真宗大谷派円行寺とされている。戦国時代末家康の重臣平岩親吉の祖父重益は額田代官を勤め、坂崎に閑居したとされ、久保田地域
39. しもいまいむら【下今井村】山梨県:中巨摩郡/若草町
日本歴史地名大系
あった同所の二貫七〇〇文ほかを安堵されている。慶長一一年(一六〇六)と推定される四月一四日の平岩親吉知行書立写(中巨摩郡志)によれば、小林助三郎が当地の一五石余
40. せたぐん【勢多郡】
国史大辞典
城にいてその支配下となったが、天正十二年(一五八四)より後北条氏、同十八年以降は徳川氏の家臣平岩親吉が藩主となり、勢多郡の大半は前橋藩領となった。赤城南麓の土地
41. せたぐん【勢多郡】 : 勢多郡/(一)
国史大辞典
城にいてその支配下となったが、天正十二年(一五八四)より後北条氏、同十八年以降は徳川氏の家臣平岩親吉が藩主となり、勢多郡の大半は前橋藩領となった。赤城南麓の土地
42. せたぐん【勢多郡】群馬県
日本歴史地名大系
り、関東に入部した徳川家康の麾下諸将によって分治された。赤城山西麓・南西麓を前橋に封ぜられた平岩親吉(前橋藩)、南麓を大胡に封ぜられた牧野康成(大胡藩)、北麓を
43. ぜんりゅうじ【禅隆寺】愛知県:名古屋市/東区/作子町
日本歴史地名大系
本尊は釈迦牟尼仏。藩祖徳川義直の娘普峯院の寄進。慶長一二年(一六〇七)甲府能成寺の元住職兀山が義直の執政平岩親吉に従って尾張に移り、元和九年(一六二三)この地に
44. たけだはちまんぐう【武田八幡宮】山梨県:韮崎市/北宮地村
日本歴史地名大系
安堵している(「徳川家康印判状写」寺記)。また「社記」によると天正年中家康が神社改を行った際、平岩親吉に命じて当社造営を行ったと伝える。慶長九年(一六〇四)三月
45. ちからまち【主税町】愛知県:名古屋市/東区
日本歴史地名大系
占める武家屋敷街の中心をなし、三〇〇石内外の藩士の居宅が並んでいた。もと武田信玄の臣下でのちに平岩親吉に仕え、さらに徳川義直に召出され、この地に住んだ野呂瀬主税
46. ちょうぜんじ【長禅寺】山梨県:甲府市/甲府城下/愛宕町
日本歴史地名大系
が安堵され、同一九年四月五日には加藤光泰の禁制(同文書)、慶長八年(一六〇三)六月一六日には平岩親吉の禁制(同文書)も下された。慶長末年頃と推定される一一月二四
47. てんじんしゃ【天神社】山梨県:東八代郡/八代町/永井村
日本歴史地名大系
に命じられている。天正一一年(一五八三)閏正月二一日の平岩親吉証文(天神社文書)によれば、徳川家康の家臣で甲斐支配を委任されていた平岩親吉から、当社への狼藉や竹
48. てんたくじ【天沢寺】山梨県:中巨摩郡/敷島町/亀沢村
日本歴史地名大系
寺領二五石余・境内七七一坪が黒印地となった。のち将軍家朱印状で朱印地となる(寺記)。慶長八年の平岩親吉禁制写や正保四年(一六四七)の平岩良辰禁制写が伝えられてい
49. とうこうじ【東光寺】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区/東光寺村
日本歴史地名大系
勝志)。同一九年四月五日には加藤光政から(「加藤光政禁制写」寺記)、慶長八年(一六〇三)には平岩親吉から禁制(早稲田大学所蔵文書)を与えられた。同年には寺内一千
50. とうこうじむら【東光寺村】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区
日本歴史地名大系
従来どおり安堵され(「豊臣家証文写」寺記)、慶長八年・同九年の二度にわたり禁制を下されている(同八年「平岩親吉禁制写」・同九年「徳川家奉行連署禁制写」同書)。境
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