奈良・平安時代に日本から唐につかわされた使。618年隋が滅んで唐が国を建てた。聖徳太子が摂政のころ,数次にわたって隋に使者がつかわされ,遣隋使による文化の摂取が行われはじめたのであるが,新興の唐帝国の国力はいよいよ盛んで,法式制度は整い,文化は空前の繁栄を呈した。日本ではひきつづき唐へ使者をつかわした。これを遣唐使という。630年(舒明2)犬上御田鍬(いぬがみのみたすき),薬師恵日らをつかわしたのを第1回とし9世紀の中ごろに及ぶまで,前後十数回にわたって継続的にその派遣がつづけられた。遣唐使は政府から任命された使者が政府の費用で船をつくり,旅装をととのえて唐の王室につかわされる公式の使節である。その主たる目的は,日本の側からいえば文化の摂取であり,交易の利を求めることであったが,中国の側からいえばあくまで朝貢にほかならなかった。当時中国と交渉をもった四隣の国々は,朝貢によることなしに,中国と外交関係を結ぶことはできなかった。日本の遣唐使は国書を携行しなかった。朝貢関係をはっきり文書にあらわすのを好まなかったからである。唐の朝廷における国際的地位を高めることは,日本の遣唐使の常に心がけたことであった。藤原清河らが入唐のさい,新羅の使節と唐の宮廷内における席次を争ったことなどはその努力のあらわれである。このような努力にもかかわらず,唐と日本との関係が朝貢関係を基本とするものであったことに変りはない。
遣唐使の長官は大使である。その上に執節使や押使の置かれた場合もある。大使の下に副使。大使・副使は通常1名。その下に判官・録事若干名ずつ。このほかに知乗船事・造舶都匠・訳語(おさ)・医師・陰陽師・画師・史生・射手・船師・新羅訳語・奄美(あまみ)訳語・卜部(うらべ)・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・師(かじとり)・傔人(けんじん)・挟抄・水手らがあり,これに留学生・留学僧らが加わった。一行は240~250人から500人以上に及んだ。一行はふつう4隻の船に乗りこんだ。船の構造は帆船で櫓(ろ)が備えられていたことは確実である。後の例から推測すると平底で波切りがわるく,風のないときや逆風のときは帆をおろして櫓でこがなくてはならなかった。一行のうちに水手が多かったのはこのためである。まだ季節風の知識も知られていなかったので,逆風の季節と知らずに出帆し難船した場合も少なくなかった。
航路はいくつかの航路があり,北路は難波-筑紫-壱岐-対馬-朝鮮半島西岸北上-渤海湾横断-山東半島上陸の経路である。南路は難波-筑紫-値嘉島(平戸・五島列島)-庇良(平戸)島-宇久島-遠値賀(小値賀)島-合蚕田(あいこのた)浦-福江島-東シナ海横断-揚子江口上陸の経路である。海道舡路は筑前-朝鮮半島西岸北上-渤海湾横断-山東半島南岸西行-華北・華中沿岸南下-揚州上陸の経路である。難波-筑紫-多褹(種子)-夜久(屋久)-吐火羅(宝)-奄美-度感(徳之)-阿児奈波(沖縄)-球美(久米)-信覚(石垣)-東シナ海横断-揚子江口上陸の南島路は漂流による経路であろう。遣隋使および初期の遣唐使の往復はおおむね北路によったが,白村江の戦で日本と敵対関係にあった新羅が半島を統一して以来,日本との関係が緊張したので,中期以降の遣唐使は南路または南島路によった。海道舡路はだいたい北路と一致するが,これは古くから新羅の商人によって利用された航路であって第17回遣唐使の帰路は新羅船をやとってこの航路で帰国した。南路・南島路はいうまでもなく危険率が大きかった。中途で沈没したり,漂流の末現地人に略奪されたり殺されたりした場合も少なくない。
使節には容止儀礼ある貴族の子弟が選ばれ,留学生・留学僧には当時の傑出した人材が選ばれた。彼地において容止を賞せられた粟田真人(まひと)・藤原清河らのような者もある。道慈・玄昉(げんぼう)・最澄・空海・円仁らのように仏教史上大きな足跡を残した傑僧,伊吉博徳(いきのはかとこ)・山上憶良・吉備真備・大和長岡・橘逸勢(たちばなのはやなり)・藤原貞敏のごとき日本文化・政治史上忘れることのできない人物はいずれも遣唐使としてまたは留学生・留学僧などとして入唐した人々である。なかには阿倍仲麻呂のごとく唐朝に重く用いられついに彼地に没した者もある。遣唐使は帰朝のさい帰化人を伴ってくることが少なくなかった。その中には,鑑真(がんじん)のごとく仏教史上に重要な人物もあったし,帰化した工人らが日本の工芸技術に貢献したところも少なくない。
894年(寛平6)菅原道真は上表して唐国が衰微していることおよび途中の危険なことを理由として遣唐使をやめるよう請うて許され,その後再び遣唐使が任命されることはなかった。入唐した最後の遣唐使は834年(承和1)の藤原常嗣らである。平安時代に入ってから新羅の商人の日本に来航するものがあらわれ始め,ついで唐の商人も来航するようになった。巨大な国家資本を投じて遣唐使を派遣しなくても,中国大陸との文化的接触を保つことができるようになったのである。日本にあっても遣隋使以来,奈良・平安時代を経過するうち,大陸文化を摂取・消化できるようになり,独自の文化を生み出そうとする機運が熟してきた。大化以来,中国を範としてきた律令制度もしだいに形だけのものとなってきた。中国にあっても唐末の内乱があいついでその国威は昔日のようではなくなった。遣唐使の廃止はこのような情勢下に実現したのである。あたかもこのころを期として日本には急速に国風文化が発展するが,それは,けっして唐との文化的接触が断絶した結果ではないのである。
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