よもやま句歌栞草
「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。
中村 裕(俳人・編集者)
Vol.9スポーツ
スポーツに類したものはもちろん昔から日本にもあったわけだが、概念自体は明治以降に西欧からもたらされたものである。江戸時代には其角の「投げられて坊主也けり辻相撲」、几菫〈きとう〉の「やはらかに人分け行くや勝角力」といった相撲を詠んだ句が目につくぐらいである。明治に入って西欧文化の大量移入とともに、さまざまなスポーツも紹介されるようになるが、俳句との関連でなんといっても逸することのできないのは野球。近現代俳句史において大きな役割を果たすことになる正岡子規と水原秋桜子が、ともに熱烈な野球好きだったからである。子規の場合は野球好きどころか、一高の名プレイヤーとして野球そのものの普及に貢献し、近年、野球殿堂入り(新世紀特別表彰)したぐらいなのだ。本名の「升〈のぼる〉」にかけて「野〈の〉球〈ボール〉」を雅号にしたり、「打者(ストライカー)」「走者(ラナー)」「飛球(フライボール)」といった訳語も工夫している。そもそも後に子規のもとで近代俳句を強力に推進していくことになる河東碧梧桐や高浜虚子との最初の出会いは野球のプレー中だったといわれている。野球を詠んだ俳句もかなりあるし、「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな」「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬも」といった短歌もつくっている。「久方の」は光、空、天、雨にかかる枕詞だが、その音にアメリカの「アメ」をかけたのである。
ところが野球ではナイターが季語になったぐらいで、作品的にはあまり見るべきものがないのは面白い。それにひきかえ昭和初年の新興俳句運動の勃興期には、ラグビー、水泳、スキー、スケートなどが意欲的な俳人たちに積極的に詠まれ、作品的にも成果をあげる。
波のりの白き疲れによこたはる 同時期の句に藤後左右〈とうごさいう〉の「波のりや島の娘の出てゐる前で」「波のりをしてゐるうちも恋敵〈こいがたき〉」という句があるから、サーフィンは戦前から楽しまれていたことがわかる。この「白」には砂浜の白も重ねられているだろうが、疲れそのものを白と叙したのは、きわめて斬新かつモダンである。この頃、やはり新興俳句の高屋窓秋も名高い「頭の中で白い夏野となつてゐる」をつくっているから、「わび」「さび」のくすんだ色ではない白は、当時の俳句の変革をめざす若いエネルギーを象徴した色だったのかもしれない。
ピストルがプールの硬き
はたはたや体操のクラス遠くあり 「はたはた」はバッタのこと。ハタハタと羽を鳴らして飛ぶからである。飛ぶといっても長時間、飛んでいるわけではない。気がついたらバッタだったといった程度の時間。その感じが、遠くに体操の授業を受けているクラスを眺めているというある種の疎外感と響き合い、青春の物憂さ、倦怠感といったものを伝える。
ラガー等のそのかちうたのみじかけれ 「昭和九年二月十八日大阪花園に於て全日本対全濠州ラグビー試合を見る」と注記のある連作中の一句。勝利したチームのメンバーが集まって、敗者を称える短い叫び声をあげたところである。内容としてはそれだけのことなのだが、それを越えて人生論的な比喩としても読むことのできる点が、この句が人気のある理由だろう。
タクルして転がり合へば雁渡る 同じくラグビーに取材した作品。『白泉句集』にはこの句に並んで「ラガー等の胴体重なり合へば冬」という句もある。「雁渡る」「冬」といったきわめて伝統的な季語に、当時としては新奇だったスポーツを取り合わせたことで、それまでの俳句にはなかった清新さを感じさせる。ラグビーは冬の季語とされたが、そんなことにこだわっていない点にも白泉の自由さを感じる。
雪嶺やマラソン選手一人走る 遥かな距離を一人走り抜くマラソン選手の孤独と、かなたに雪をいただいて屹立する雪嶺の孤独を重ねているのである。「長距離ランナーの孤独」という小説があったが、走者やランナーに材をとった俳句作品でも、その孤独感に焦点をあてたものが多い。あらゆるスポーツにもいえることだが、日常性から切り離されたスポーツにおける肉体は、より純粋に人間存在の孤独を浮かび上がらせるのだろう。沢好摩に「木枯しの橋を最後の走者過ぐ」という句がある。
スケートの濡れ刃携へ人妻よ エッジがまだ濡れているスケートを携えている人妻。一度、お会いしたいものだが、まだそのチャンスに恵まれない。誰しもこの句の官能美をいうが、それを確かなものにしている技巧的な裏づけとして、まず「よ」の効果。その人妻に呼びかけるという場を設定することで、読者を直接に彼女に向き合わせ、もはや目をそらすことをできなくしてしまうのである。また「濡れ刃」には同音の「濡れ場」もかかっているだろう。狩行の代表作として名高い作品。
六月の砲丸かまへ手首病みぬ 砲丸投げで、いままさに砲丸を手にして投げようとしているのである。しかし肝心の手首を傷めている。投げればさらに傷めるかもしれない。さあ、どうするか。傷めるのが心配だったら、よせばいいのである。簡単なはなしである。それでも投げなければと思うのは、それがスポーツだからである。疲れるからスポーツはしないというスポーツマンはいない。些細な一瞬を叙しただけのようだが、案外に深くスポーツの本質に肉薄した作品である。
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり ずらっと並んだテレビのブラウン管が、短距離走でスタートしたばかりの選手たちを映している。それがみな黒人だというのである。というより黒人たちがスタートダッシュしている同じ画面を20のテレビが映しているのである。ダイナミックなその瞬間を、20のテレビが同時に映すことで、肉体というものを主役としたスポーツの機械性というべきものがより増幅されて伝わってくる。
試合開始のコール忘れて審判は風の匂いにめをとじたまま 試合開始のコールを告げるために、審判員はそこに立っているわけだから、芝生をわたってくる風があまりに清々しく、それを嗅ぐのに夢中で、コールすることを忘れているはずはない。でも観客あるいは選手たちに一瞬でもそのように思わせるのは、そのサッカーかラグビーのフィールドのあまりの気持よさだろう。そこでこれから激しい闘争が始まるなんてウソのよう。スポーツの場では、このような瞬間にしばしば出会うことがある。それはスポーツというものの非日常性からくるものだろう。
2003-10-14 公開