1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の疎開者を乗せた貨物船対馬丸(6754トン。建造当時)がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、乗船していた学童784人を含む1484人(氏名判明者数)が犠牲となった事件。
1941年12月の太平洋戦争開戦から半年で、日本軍は敗戦を重ねるようになり、1944年7月7日にはサイパン島がアメリカ軍に占領された。サイパン島の次は沖縄が標的となると判断した日本軍の要請で、政府は沖縄県の高齢者、子ども、女性を島外へ疎開させる指示を出す。
予定人数は、日本本土へ8万人、台湾へ2万人の計10万人。県は「県外転出実施要綱」を策定し、転出を認める範囲を「60歳以上15歳未満の者、婦女病者」とした。ただし、女性の転出には「老幼者の世話をなす必要ある者および軍その他において在住の必要なしと認むるもの」という制限があった。また、周辺海域の危険をそれとなく知っていた県民にとって船に乗ることは一つの「賭け」であり、疎開の気運も高まらなかった。
しかし、3月の第32軍創設以降、多数の兵士が沖縄に移駐して大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動させることは急務だったことから、7月19日、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し学校単位での疎開事務を進めた。大人の不安をよそに、子どもたちは「ヤマト(本土)へ行けば汽車にも乗れるし、雪も桜も見ることができる」と無邪気にはしゃいでいた。
対馬丸は1915年(大正4)に竣工した貨物船である。太平洋戦争が始まると、政府は戦時海運管理令によって海運を国家管理するようになり、対馬丸は陸軍に徴用された。同船は1944年8月、上海(シャンハイ)の呉淞(ごしょう/ウーソン)から第62師団の将兵を乗せ、沖縄へやってくる。
一方、アメリカ海軍は1941年12月に対日無制限航空・潜水艦戦の実施を決めた。これは武装していない商船でも、船員や乗員の安全などかまわず警告なしに攻撃する戦法だった。アメリカ軍は日本の軍事暗号解読にも取り組み、対馬丸など日本の商船隊から発せられた暗号は1943年初頭には解読していた。
そのような状況下の1944年8月21日夕方、対馬丸は疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、船舶砲兵隊員の合計1788人を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸、暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)、蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目ざし、那覇(なは)を出航した。建造から30年近く経った老朽貨物船対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だった。翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県悪石(あくせき)島の北西約10キロメートルの地点を航行中、潜水艦ボーフィン号から数発の魚雷攻撃を受け、10時23分ころ対馬丸は沈没する。攻撃を受けてからわずか11分間のできごとだった。
多くの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波に飲まれた。犠牲者数は1484人とされているが、それはあくまでも氏名判明者数であり、対馬丸記念館はそのホームページに「原則は『不明』です」と記している。
筏(いかだ)にすがって漂流した人々は、翌23日以降、付近の漁船や海軍の哨戒(しょうかい)艇に救助されたほか、奄美(あまみ)大島まで流されるなどして生き延びた。救助された人々には箝口(かんこう)令がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことは禁じられた。第32軍司令部は8月24日に対馬丸沈没の事実をつかんでいたが、残された家族に正しい情報が知らされることはなく、犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われなかった。
1950年(昭和25)10月、犠牲者の家族たちは対馬丸遭難学童遺族大会を開催し、遺族会の活動をスタートさせた。1954年に那覇市護国寺内に建立された小桜の塔は当初、戦没学童の慰霊碑だったが、対馬丸遺族がこの碑の前で慰霊祭を開催するなどしたことから、対馬丸犠牲者の慰霊碑とされるようになった。
1961年、沖縄生まれの小説家大城立裕(おおしろたつひろ)らが、遺族や生存者の証言を基にまとめた『悪石島』を発表し、対馬丸事件が知られることになった。本書を基に製作されたのが1982年公開のアニメ映画『対馬丸―さようなら沖縄―』で、大人が起こした戦争のために幼い子どもたちが多数犠牲になったことを戦時下の教育者の姿と重ねて描き、幅広い年代に視聴された。
遺族への補償は、1977年から対馬丸遺族特別支出金制度によって行われたが、学齢に相当する犠牲者の両親あるいは祖父母が存命である場合に限り支出金を給付するというもので、これに該当しない遺族が多数存在するなど、十分なものではなかった。また、受給条件に該当する者がいなくなったとして、この制度は2021年度(令和3)で終了した。
1997年(平成9)、遺族会の要請に基づいて行われた悪石島沖海底捜索の結果、12月12日に船体が発見された(北緯29度31.93分、東経129度32.90分、水深871メートル)。遺族は船体引上げを要求したが政府はこれを不可能とし、代替案として記念館の建設案がもちあがった。2001年(平成13)6月、記念館が全額国庫補助で建設されることが決まり、対馬丸遭難者遺族会は財団法人対馬丸記念会を組織し、記念館建設のための独自運営を始めた。2004年8月22日に「対馬丸記念館」が開館、2013年4月からは対馬丸記念会は公益財団法人に移行して館の運営を担っている。