ヨーロッパ南東部、バルカン半島中部の内陸国。正式名称はコソボ共和国。長くセルビア共和国南部の自治州であったが、2008年に独立を宣言した。日本を含む100か国以上が国家として承認しているが、国際連合(国連)には加盟していない。北大西洋条約機構(NATO(ナトー))の国際治安維持部隊(KFOR)と、ヨーロッパ連合(EU)の人権監視部隊(法の支配ミッション:EULEX)が駐留している。面積は1万0908平方キロメートル(岐阜県に相当)、人口158万6659人(2024国勢調査)。民族構成はアルバニア人92%、セルビア人4%、ボシュニャク人(スラブ系ムスリム)2%、その他(トルコ人、ロマなど)2%。宗教はイスラム教93.5%(スンニー派。アルバニア人の大半、ボシュニャク人、トルコ人)、キリスト教4.1%(カトリック2.3%=アルバニア人の一部、正教1.8%=セルビア人、アルバニア人の一部)など(2024国勢調査)。首都はプリシュティナ。
亜鉛、鉛など鉱物資源に恵まれているが、国内総生産(GDP)は約105億米ドル、国民1人当り6157米ドル(2023国連統計)と、ヨーロッパの最貧困地域の一つである。国際援助がGDPの約10%、ほかに欧米の移民・出稼ぎ者からの送金が17%ある(2015国際通貨基金)。EU非加盟であるが、通貨は国連暫定統治時代からユーロが使用されている。失業率は25.9%(2020コソボ統計局)と高く、大学卒業者を含む若者の多くは国外への移民・出稼ぎを希望する。独立宣言以降、70万人が出国し、ドイツ、スイス、スカンジナビア諸国、北米に計80万人(コソボ本体の約半分)が住むとされ(2020コソボ統計局)、コソボ本体の人口は横ばいから減少傾向にある。
紀元前1世紀、ローマ帝国がイリリア人の国を滅ぼし、コソボを含む地域を帝国に組み入れた。一部の歴史家が、イリリア人がアルバニア人の祖先だとしているが、論争があり確定していない。その後、コソボはビザンティン帝国(東ローマ帝国)などの支配を経て、12世紀にセルビアの中心地となった。中世セルビア王国は14世紀なかばにはドゥブロブニク(現在のクロアチア南部の都市)からギリシアまでバルカン半島の大半を支配し、一時は帝国を自称するほど栄えた。しかし1389年の「コソボの戦い」で、セルビアを中心とするキリスト教連合がオスマン帝国側に敗れて以降、コソボは20世紀初めまで600年以上オスマン帝国の支配を受けた。「コソボの戦い」は吟遊詩人に歌いつがれて伝説となり、19世紀のセルビア民族運動の精神的支柱になるが、当時はセルビア側にアルバニア人の武将も参加し、オスマン帝国側にもセルビア人が参加していたのが実情で、民族・宗教対立を強調する伝説とは異なる部分も多い。
コソボは1878年にアルバニア人による民族組織(プリズレン連盟)が結成されるなど、アルバニア独立運動の有力な根拠地であった。しかしアルバニア独立(1912)の際にセルビアに組み入れられ、1918年には「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(のちのユーゴスラビア王国)の一部になった。第二次世界大戦後の社会主義時代にはユーゴスラビア連邦のセルビア共和国内のコソボ・メトヒア自治区(のちコソボ自治州)となったが、1966年のユーゴ連邦副大統領ランコビッチ失脚まで秘密警察の強権支配が続いた。大統領チトーの晩年の1974年には、憲法改正により共和国並みに自治権が拡大された。輪番制の集団国家元首機関(連邦幹部会)にも代表を出し、1986年にはコソボ出身のアルバニア人作家ハサニSinan Hasani(1922―2010)がユーゴスラビアの国家元首を務めた。
コソボでは1968年と1981年に、自治権拡大を求める大規模な抗議デモが発生、セルビア政府の弾圧で多数の死傷者が出た。アルバニア系住民とセルビア系住民との対立が深まるなか、1989年にはセルビアのミロシェビッチ政権がコソボ州議会戒厳令を導入し、議会を解散させるなど自治権を剥奪(はくだつ)した。これに対し、穏健派のルゴバIbrahim Rugova(1944―2006)を中心とするコソボ議会のアルバニア系多数派は非合法政府を組織し、1990年にはコソボのユーゴスラビアからの独立を宣言した。一方、スロベニアなどほかの地域では、セルビアへの抗議とコソボへの連帯運動が広がり、これがユーゴスラビアからの独立運動に発展した。コソボ紛争は旧ユーゴ連邦解体のきっかけになった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後の1998年、アルバニア系過激派のコソボ解放軍(KLA)が活動を活発化した。アメリカは1990年代にKLAをテロ組織に指定していたが、1998年夏にこれを解除し、武器輸入を解禁したことで、KLAとセルビア治安部隊との武力衝突が急増し、各地で多くの難民が発生した。1999年3月、アメリカは国連の承認を得ずに「人道的介入」として、NATOによるセルビア全土空爆を実施。同年6月、コソボからセルビア側の軍と警察治安部隊が撤退したことにより、空爆は終了した。コソボは国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下に入り、NATO主導のKFORが展開した。
同1999年夏には東南部に米軍基地が新たに建設され、KFORの司令部が置かれている。
アルバニア系が多数を占めるコソボ議会は、2008年2月にセルビアからの独立を宣言した。100か国以上がコソボ共和国を国家として承認したが、セルビアやロシアなどは承認していない。2013年、コソボはセルビアとの関係正常化に取り組むことで合意し、国際オリンピック委員会(IOC)など国際組織加盟を果たすが、2025年4月時点でも国連加盟は実現していない。2020年にはコソボの大統領サチHashim Thaçi(1968― 。元KLA指導者)が戦争犯罪容疑で起訴され、辞任した。
NATO空爆後から四半世紀以上経過した2025年4月時点でも、コソボから流出したセルビア系の難民二十数万人の帰還はほとんど実現していない。
コソボのセルビア系住民は北部ミトロビッツァ地方や各地の修道院周辺に住んでいるが、2023年の地方選挙ではセルビア系住民が投票をボイコットし、ミトロビッツァ地方のズベチャン市では投票率3%台でアルバニア系市長が就任した。この際、抗議するセルビア系デモ隊とコソボ警察、KFORが衝突し、多数の死傷者が出た。このように、独立宣言以後も、一部の地域では緊張状態が続いている。