ボスニア紛争時のセルビア人勢力指導者。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サライエボへの無差別的攻撃や、イスラム教徒やクロアチア人に対する「民族浄化」(他民族の殺害・追放)を命令した戦争犯罪(大量虐殺罪)の容疑で、同勢力軍司令官ムラディチRatko Mladić(1942― )とともに旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷(ICTY)に起訴された。
モンテネグロ生まれであるが、サライエボで精神分析医となる。詩人としても知られた。旧ユーゴスラビア連邦が解体に向かうなかで行われた1990年の自由選挙を前に、セルビア人の主権を求める「セルビア民主党」を創立し、党首に就任。選挙後、ムスリム系の民主行動党およびクロアチア系のクロアチア民主同盟の両民族主義政党と「反共」連立政権を樹立し「不戦の誓い」を交わした。しかし1991年後半から1992年初めにかけて、旧ユーゴスラビアからの独立を目ざす多数派の動きにセルビア人が反発し、3勢力の連立政権は崩れていった。こうしたなか、カラジッチはボスニア・ヘルツェゴビナ内部に「セルビア人共和国」(スルプスカ共和国)を樹立し、大統領となる。将来のセルビア本国との合併を見越した行動である。1992年春以降、セルビアとモンテネグロによるユーゴ連邦軍(新ユーゴ軍)の支援を得ながら軍事的に支配地域を拡大した。当初カラジッチはセルビア本国のミロシェビッチの傀儡(かいらい)とみなされたが、戦争を通じて実力を蓄え、「全セルビア民族の指導者」の地位を争うまでになった。しかし、1995年アメリカのオハイオ州デイトンでの和平交渉には戦犯容疑で起訴されたため参加できなかった。1996年6月に大統領辞任、7月には公職追放された。戦犯容疑者として指名手配されるなか、潜伏を続け、11年後の2008年7月セルビアのベオグラードで拘束された。2019年3月、ICTYで終身刑の判決が確定し、2021年5月にイギリスのワイト島の監獄に収監された。