アゼルバイジャンがかつてソビエト連邦(ソ連)の一部であった時期のうち、1923年から1991年までの間に同国西部のアルメニア人居住地域に置かれていた自治州の名称。面積4400平方キロメートル、人口18万9085(1989)。1991年以降、事実上、その地域の大部分は未承認国家であるナゴルノ・カラバフ共和国(2017年2月、国名を「アルツァフ共和国Republic of Artsakh」に変更)の統治下にあったが、2023年9月のアゼルバイジャン軍の攻撃によりアルツァフ共和国は消滅し、アゼルバイジャンが同地域の統治権を回復した。なお、ナゴルノ・カラバフ自治州は、アゼルバイジャンの行政区画としては1991年に廃止されており、その領域はアゼルバイジャンの複数の州にまたがっている。
ナゴルノ・カラバフは、1923年アゼルバイジャンに属するナゴルノ・カラバフ自治州Нагорно-Карабахская Автономная Область/Nagorno-Karabahskaya Avtonomnaya Oblast'として設立され、その地位のまま社会主義時代を過ごしてきたが、1988年以降アルメニアとアゼルバイジャンの間でその帰属が争われていた。
ソ連時代の1980年代後半、住民の大半を占めるアルメニア人がこの自治州のアルメニアへの帰属替えを主張し、1988年にアゼルバイジャン国内でアゼルバイジャン人とアルメニア人の民族紛争が勃発(ぼっぱつ)。これにアゼルバイジャン軍が介入し、さらにアルメニア、アゼルバイジャン両国の武力衝突に発展した(ナゴルノ・カラバフ戦争)。1991年9月2日、ナゴルノ・カラバフ自治州と同州の北側に隣接するシャウミャノフスク地区との合同の人民代議員会議(議会)が「ナゴルノ・カラバフ共和国」創設を宣言、同年12月10日に住民投票を行い、1992年1月6日独立を宣言した。アゼルバイジャンはこれを認めず、アルメニアとの紛争はさらに先鋭化。1994年に停戦協定が発効したものの、その後も紛争は断続的に続いた。2020年の大規模な衝突ではアルツァフ共和国の実効支配地域の多くが失われ、さらに2023年9月、アゼルバイジャン軍による攻撃を受けたことにより、アルツァフ共和国大統領は2024年1月1日までにアルツァフ共和国の存在を終了するとの大統領令に署名した。戦闘終了後、残るアルツァフ共和国支配地域から10万人以上のアルメニア系住民が難民としてアルメニアに脱出し、アゼルバイジャンが同地域の統治権を回復した。
小カフカス山脈東側斜面に位置し、標高2500メートル級のカラバフ山脈から標高200~300メートルの山麓(さんろく)にかけて広がり、クラ川に注ぐ多くの支流の谷がおもな生活舞台となっている。平均気温は1月零下13℃~1℃、7月14℃~26℃。年降水量は400~900ミリメートル。低地は半砂漠で、山地は広葉樹林に覆われている。
1989年国勢調査によるナゴルノ・カラバフ自治州の主要民族構成は、アルメニア人(14万5500、76.9%)、アゼルバイジャン人(4万0700、21.5%)であったが、2015年のナゴルノ・カラバフ共和国の調査ではアルメニア人(13万7380人、99.7%)が圧倒的多数を占めていた。2019年時点でのアルツァフ共和国の人口は14万8800人、同共和国首都のステパナケルトСтепанакерт/Stepanakert(アルメニア語)の人口は5万8300人であったが、2020年以降、10万人以上のアルメニア人が難民としてアルメニアに脱出し、報道によると2023年10月の時点で、旧ステパナケルト(アゼルバイジャン語でハンケンディXankəndi/Khankendi)の人口は数百人にまで減少したという。アゼルバイジャン政府は、2027年までに旧ナゴルノ・カラバフ地域に15万人を移住させることを目標としている。
おもな工業は、食品加工、軽工業、木材加工、建築資材生産、鉱業(銅・金)などであり、農業は、ブドウ、果樹、野菜、穀物、タバコ、飼料作物の栽培、ウシ、ヒツジの牧畜、養豚、生糸生産など。また、中心都市の旧ステパナケルト(現、ハンケンディ)には、軽工業(絹織物、製靴、じゅうたん製造)、食品加工(乳製品、食肉)、電気機器、農機具、家具、建築資材などの工場があったが、2020年以降、紛争による破壊とアルメニア人の流出により、産業は衰退し、現在は復興途上であると考えられる。