ロシアの政治家。ロシア連邦大統領(在任2000~2008、2012~ )。レニングラード市(現、サンクト・ペテルブルグ市)生まれ。レニングラード大学(現、サンクト・ペテルブルグ大学)法学部卒業(1975)。経済学博士候補(1997)。ドイツ語に堪能(たんのう)。サンボのスポーツ・マスター(1973)、柔道のスポーツ・マスター(1975)の称号を授与されている。1983年にリュドミラ・アレクサンドロブナ・シュクレブネワLyudmila Aleksandrovna Shkrebneva(1958― )と結婚(2013年に離婚)し、長女マリヤMaria Vorontsova(1985― )、次女カテリーナKaterina Tikhonova(1986― )の2子をもうけた。
1975年、ソ連国家保安委員会(KGB)に入り、1985~1990年に東ドイツ・ドレスデンで諜報(ちょうほう)活動に従事。1990年に帰国し、KGB在籍のまま、レニングラード大学学長補佐(国際問題担当)、レニングラード市議会議長顧問を歴任後、1991年6月、サンクト・ペテルブルグ市対外関係委員会議長(外資導入・合弁企業問題担当)に就任。同年8月、KGBを退職。1994年からサンクト・ペテルブルグ市政府第一副議長(副市長)・対外関係委員会議長を兼務。1996年8月、大統領エリツィンのもとで、大統領府総務部次長(法務・在外資産担当)、1997年3月大統領府副長官兼監督総局長、1998年5月大統領府第一副長官(地域対策担当)、同年7月連邦保安庁長官、1999年3月安全保障会議事務局長(連邦保安庁長官と兼務)を歴任。同年8月、政府議長(首相)に就任。同時期にモスクワ市内ほかで連続爆破テロ事件が発生すると、断固たる姿勢で対テロ闘争を指揮し、国民の高い支持を得た。同年12月、エリツィンが任期満了前に大統領を辞任したため、憲法の規定により大統領代行に就任し、2000年3月、大統領選挙に当選(就任は5月。以下同様)。2004年3月、再選(2期目)。2008年5月、大統領退任後、首相に就任。2012年3月に大統領に再選(3期目)、その後2018年3月(4期目。2008年憲法改正により任期を4年から6年に延長)、2024年3月に再選(5期目)。大統領在任通算20年を超す長期政権となっている。
プーチン政権は、2期目まで(2000~2008)に、経済の混乱、治安の悪化、中央政府の弱体化、不安定な政局といった前任のエリツィン政権期の諸問題を克服し、年率平均7%という高度経済成長を達成し、2008年以降も、経済の安定成長と国内政治の安定を維持してきた。これがプーチンに対する60~90%という高い支持率の理由である。他方、北大西洋条約機構(NATO(ナトー))の東方拡大を背景に、2003~2004年に旧ソ連諸国のジョージア(グルジア)で起きた「バラ革命」やウクライナで起きた「オレンジ革命」で親欧米・反ロシア政権が相次いで成立したことを、プーチン政権は欧米の内政干渉によるものと考え、ロシア国内で同様のことが起きないよう、2005年以降、外国からの支援を受ける人権団体、政府に批判的な独立系メディア、反体制的党派に対する規制を強化し始めた。
こうした状況下で、2008年8月、ジョージア政府軍が分離独立を主張する南オセチア地域を攻撃、これに対し南オセチアを支援するロシア軍が介入した(ロシア・ジョージア紛争。同年8月中に停戦)。さらに2014年2月、ウクライナでは、ロシア系住民が過半数を占める東部ドネツク州出身の大統領ヤヌコビッチViktor Yanukovych(1950― )に反発する親欧米派・ウクライナ民族主義者を中心とする反政府暴動が激化し、ヤヌコビッチ政権が崩壊すると(マイダン革命)、東部ドネツク州・ルハンシク州では分離独立派が台頭、政権側との武力衝突に発展した(ウクライナ紛争)。他方、ロシア系住民が大多数を占めるウクライナのクリミア自治共和国はロシアに併合された。この結果、ウクライナとロシアの対立は決定的なものとなり、2022年2月、プーチンは、ウクライナ東部のロシア系住民をウクライナ軍の攻撃から守ることと、ウクライナのNATO加盟阻止を目的として、本格的軍事侵攻を開始した(ロシアのウクライナ侵攻)。2024年3月に通算5期目の大統領再選を果たしたプーチンにとって、ロシアの経済力と国際的地位を維持しつつ、どのようにしてウクライナとの戦争を終わらせるかが重要な課題となっている。