カンボジアの政治家。8月5日にコンポン・チャーム州で生まれる。出生時の名前はフン・ブンナルHun Bunal(1972年にフン・センに改名)。地元の小学校で学んだ後、進学のため1964年に首都プノンペンへ移り、ニアクボアン寺院で暮らしながらリセ・インドラ・テービーで学ぶ。同寺院の僧侶で革命思想をもつ師が、国家元首のノロドム・シアヌークによる左派弾圧で逮捕されたことをきっかけに、1968年に学業を捨ててポル・ポトが率いる共産主義ゲリラに加わる。カンプチア民族統一戦線の戦闘兵として反ロン・ノルLon Nol(1913―1985)闘争を戦い、1975年4月の戦闘で左眼を負傷し失明。ポル・ポト政権(1975年4月~1979年1月)下で東部管区第21地区の副連隊長に就任したが、1977年6月に同政権から離反してベトナムへ亡命し、1978年12月にヘン・サムリン、チア・シムChea Sim(1932―2015)らとカンプチア救国団結戦線を結成。ポル・ポト政権を打倒した1979年1月に人民革命党政権(ヘン・サムリン政権)の外務大臣に、1981年5月に国民議会議員とカンプチア人民革命党中央委員会政治局員に、同年6月に副首相兼外務大臣に選出される。1984年12月に首相のチャン・シーChan Si(1932―1984)が急死したことに伴い、1985年1月に外務大臣を兼任したまま32歳の若さで首相に就任。敵対する民主カンプチア連合政府の大統領シアヌークと1987年12月に直接会談を行って以降、和平交渉を積極的に推進し、1991年10月23日にパリ和平協定の締結に至る。マルクス・レーニン主義を放棄して党名をカンボジア人民党に改称した同月17~18日の臨時党大会で、副党首に選出された。国連管理下で行われた1993年5月の制憲議会選挙でフンシンペック党(FUNCINPEC党、親シアヌーク政党)に敗北を喫したが、政治工作によって同等の権力分有を要求して第二首相に就任。1997年の「7月政変」で第一首相のノロドム・ラナリットNorodom Ranariddh(1944―2021)を放逐して連立政権の主導権を握り、人民党が勝利した1998年総選挙後に単独首相に復帰。以後、2003年、2008年、2013年、2018年の総選挙後も首相に再任され、2023年総選挙後に長男で前国軍副総司令官兼陸軍司令官のフン・マネットHun Manet(1977― )にその座を譲るまで、約38年7か月に及ぶ長期政権を担う。首相辞任後、人民党党首の座にとどまったまま、2023年8月に国王高級顧問団長に任命され、さらに2024年4月に上院議長に就任。次男フン・マニットHun Manith(1981― )を2023年2月に陸軍副司令官に、三男フン・マニーHun Mani(1982― )を2024年2月に公務員大臣を兼務したまま副首相に登用するなど、自らを頂点とする一族支配を強化した。カンボジア赤十字社総裁を務める妻ブン・ラニーBun Rany(1954― )との間に3男2女。