「歴史」カテゴリの記事一覧
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北里柴三郎(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八五二 - 一九三一 明治・大正時代の細菌学者。嘉永五年(一八五二)十二月二十日肥後国阿蘇郡小国郷北里村に生まれた。父は惟信、母は加藤海助の女貞子、柴三郎はその長男である。明治二年(一八六九)熊本藩の藩校時習館に入ったが

田中正造(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四一 - 一九一三 明治時代の政治家、社会運動家。天保十二年(一八四一)十一月三日、下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)に生まれる。父は名主役富蔵、母サキ、幼名兼三郎。少年期赤尾小四郎塾で学ぶ。安政四年(一八五七)十七歳で父の割元昇進に伴い

西園寺公望(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四九 - 一九四〇 明治から昭和時代前期にかけての政治家。最後の元老。嘉永二年(一八四九)十月二十三日公家の清華の家柄である右大臣徳大寺公純(きんいと)の次男として京都に生まれる。母は宇佐八幡宮神主正親盛澄の娘斐子。徳大寺実則の実弟

尾崎行雄(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五八 - 一九五四 明治から昭和時代前期にかけての政党政治家。号は咢堂。安政五年(一八五八)十一月二十日、尾崎行正・貞子の長男として相模国津久井郡又野村(神奈川県津久井郡津久井町)に生まれる。地方官であった父の転任で度会県に居住

原敬(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五六 - 一九二一 明治・大正時代の政党政治家。幼名は健次郎。鷲山・一山・逸山などと号した。最初の夫人貞子は中井弘の娘。安政三年(一八五六)二月九日陸奥国盛岡(南部)藩士原直治・リツ子の次男(第四子)として同藩盛岡城外本宮村(盛岡市本宮)に生まれる

犬養毅(国史大辞典・世界大百科事典)
一八五五 - 一九三二 明治から昭和時代にかけての政党政治家。号は木堂。安政二年(一八五五)四月二十日、岡山藩士犬養源左衛門の次子として生まる。明治八年(一八七五)上京、『郵便報知新聞』に寄稿しながら慶応義塾に学んだ。同十年西南戦争に記者として従軍

山本五十六(世界大百科事典)
明治・大正・昭和期の軍人。新潟県出身。1904年海軍兵学校(32期)卒業,05年日本海海戦で重傷,16年海軍大学校(14期)卒業後,海軍大学校教官,駐米武官,空母〈赤城〉艦長などを経て30年ロンドン軍縮会議随員を務めた。34年軍備制限予備会議全権委員

マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後

吉田茂(国史大辞典・世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任

蘇民将来(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
古代説話に登場する人物で、護符の一種でもある。護符は晴明判(魔よけの星象)や「蘇民将来子孫」などの文字を記した六角柱または八角柱の短い棒で、房状の飾りや紐をつけて帯に結び下げるようになったものもある。正月に、牛頭天王(ごずてんのう)と縁の深い

范寛(世界人名大辞典・世界大百科事典)
名:中正 字:中立(仲立)中国北宋の画家.華原(現,陝西銅川)の人.性格が温厚で度量が大きかったことから「寛」とあだ名されるようになったという.在野の山水画家で,天聖年間 [1023-32]には,なお在世していたとされる

イブン・スィーナー(世界人名大辞典・世界大百科事典)
イスラーム哲学者,医学者.ブハラ(現ウズベキスタン)でサーマーン朝のペルシア人官吏の子として生まれ,イスラーム,ギリシア,インドの諸学,特に哲学,医学,数学,天文学などを極めた.サーマーン朝の王子を治療して宮廷に出入りし

ウィリアム1世(世界人名大辞典・世界大百科事典)
1027(28)~87.9.9イングランド王 [1066/87].ノルマンディー公ロベール1世(悪魔公)(Robert I le Diable †1035)の庶子.父が没するとノルマンディー公ギヨーム2世(Guillaume II)となり [1035-87],ハロルド2世がイングランド王に即位する [66]と,先王エドワード(証聖王)による

朱熹(世界人名大辞典・世界文学大事典)
1130.10.18[建炎4.9.15]~1200.4.23[慶元6.3.9]中国南宋の思想家,儒者.一般に朱子と呼ばれる.本籍は徽州の婺源(ぶげん)だが,福建尤渓(ゆうけい)(現,福建三明)で生まれた.科挙に合格,地方官として各地をまわるが,地元の福建で教育と学問に携わる期間が長かった

インノケンティウス3世(世界人名大辞典・世界大百科事典)
1160~1216.7.16ローマ教皇 [1198/1216].グレゴリウス7世の教権統治思想を踏襲し,教皇庁の強化および教皇領の失地回復を図った.ドイツの帝位争いにおいては [1198-],オットー4世を助けて,ローマで戴冠させた [1209]が,同帝が約束に反して

クビライ(世界人名大辞典・国史大辞典)
尊号:セチェン・カーンSečen Qaγan 諡号:聖徳神功文武皇帝 廟号:世祖〔漢〕忽必烈1215.9.23~94.2.18[世祖至元31.1.22]モンゴル帝国の第5代カーン(元朝皇帝) [1260/94].トルイの4男,チンギス・カンの孫,生母はソルカクタニ・ベキ.モンケがカーンに即位すると

トマス・アクィナス(世界人名大辞典・世界文学大事典)
1225(-27)~74.3.7イタリアの盛期スコラ学最大の神学者,哲学者,聖人.アクィーノ伯家に生まれる.モンテ・カッシーノおよびナポリで教育をうけ,ドミニコ会に入った [1244].パリおよびケルンに赴き,主としてパリに滞在して [45-59],アルベルトゥス・マグヌスに師事

マルコ・ポーロ(世界人名大辞典・世界文学大事典)
1254~1324.1.8ヴェネツィアの商人,東洋旅行家.父(Niccolo P.)および叔父(Matteo P.)は,クリミア半島からキプチャク・ハン国に至ったが,戦乱のため帰路を閉ざされてさらに東方に向かい,モンゴル帝国の首都ドロンノール(上都開平府)においてクビライに拝謁した

ダンテ(世界人名大辞典・世界文学大事典)
1265.5.21(-6.21)~1321.9.13(14)イタリアの詩人,哲学者.フィレンツェに生まれる.若い頃から詩人カヴァルカンティやチーノ・ダ・ピストイアらと交友があり,ラティーニに師事して修辞学を学ぶ.この頃イタリア語での詩作を始め,いくつかは《詩集:Rime》に収められている

イブン・バットゥータ(世界人名大辞典・世界文学大事典)
1304.2.24~68・9(77)アラブの大旅行家.モロッコのタンジール生まれ.21歳の時にマッカ(メッカ)巡礼に出立 [1325],エジプトに入り,アラビア半島,イラク,イラン,シリア,アナトリア,東アフリカ,南ロシア,コンスタンティノポリスを歴訪

浅草神社(日本歴史地名大系・国史大辞典)
[現]台東区浅草二丁目浅草寺境内東側にある。旧郷社。祭神は隅田川から観音像(のち浅草寺本尊)を引上げたという檜前浜成命・檜前竹成命とそれを安置したという土師真中和(土師直中知)で、大国主命・東照宮などを合祀する。江戸時代末までは三社権現と称された

阿蘇神社(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
[現]一の宮町宮地宮地(みやじ)市街地の西方にあり、約一万坪の境内を有する。祭神は健磐龍命を主神とする阿蘇十二神。古代は式内社として、中世は肥後国の一宮として、近代は官幣大社としての伝統をもつ九州の名社。。現社殿は南面する三本殿・拝殿・楼門・回廊

イェーツ(世界大百科事典)
アイルランドの詩人,劇作家。ダブリンに生まれ,美術学校に進んだが,詩人となる決心を固めて退学。1887年,家族とともにロンドンに移り,世紀末文化のただなかに身を投ずることになる。W.ペーターやラファエル前派の作品を愛読し,W.モリスやO.ワイルドを

鹿鳴館(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
明治初期の国際的社交場として建てられた洋館。東京府麹町(こうじまち)区内幸(うちさいわい)町山下門の元薩摩(さつま)藩装束(しょうぞく)屋敷跡(千代田区内幸(うちさいわい)町、帝国ホテルの隣地)にあった。1879年(明治12)外務卿(きょう)に就任して

明石城下(日本歴史地名大系)
明石川河口に近い東岸の洪積台地(通称人丸山)上に築かれた明石城を扇の要とし、その南方に広がる明石海峡に至る東西約一二〇〇メートル・南北約七〇〇メートルの地域に開かれた城下町。〔城下町の成立と発展〕元和三年(一六一七)明石に入部して

富岡製糸場(国史大辞典・世界大百科事典)
明治初年に上野国富岡に設立された官営模範製糸場で、のち民間へ払い下げられた。政府は横浜の有力生糸輸出商社エッシュ=リリアンタル商会からの器械製糸場設立の申請を退けつつ、明治三年(一八七〇)二月にみずから模範製糸場を設立する方針を定め

京都御所(日本歴史地名大系・国史大辞典)
[現]上京区京都御苑広義には大宮御所(なかに仙洞御所がある)をも含み、狭義には京都御所のみをいう。里内裏であった土御門東洞院(つちみかどひがしのとういん)邸が、鎌倉最末期以来皇居とされていたものの後身で、仙洞御所と大宮御所は江戸初期に設けられた

渡月橋(日本歴史地名大系)
桂川(大堰川・保津川)に架かる橋で、嵐(らん)橋ともいう。承和三年(八三六)に僧道昌によって大堰(おおい)川の修築が行われたが(弘法大師弟子伝)、その時架設されたのに始まるともいう。橋の南に法輪寺があったため法輪寺橋・法輪橋の名もあり

尾形光琳(国史大辞典・世界大百科事典)
一六五八 - 一七一六 江戸時代中期の代表的な画家。祖父宗柏の代から東福門院の御服所を勤めていた呉服商雁金(かりがね)屋の当主宗謙の次男として、万治元年(一六五八)に京都で生まれる。名は惟富・伊亮・方祝、通称は市之丞、号を光琳(はじめ浩臨)

札幌農学校(日本歴史地名大系)
明治九年(一八七六)に札幌学校が改称して成立した札幌農学校は日本初の高等農業専門学校。現北海道大学の前身にあたり、明治五年に東京芝増上寺本坊内に開設された開拓使仮学校を嚆矢とする。明治五年一月開拓次官の黒田清隆は、北海道に農業・工業などの学校を