小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝えられる先祖の清水大隅守政秀が主家再興の軍用金を擁して帰農した由縁の地であり、下初狩は家運没落で心そまぬ移住さきだったためかもしれない。とまれ山本は生涯、甲州と甲州人を拒絶しつづけた。明治四〇年八月二五日、山津波で祖父母、叔父母などの肉親をうしない、母とくに伴われて東京王子にあった逸太郎に合流、同町豊川小学校に入り、四二、三年頃横浜市久保町に転居、大正五年西前小学校を卒えた。後年『柳橋物語』(「椿」昭21・7)『火の杯』(「福島民友新聞」昭26・9~27・2)『正雪記』(「労働文化」昭28~32)等々の作品で、天変地異をダイナミックに描写したのは、幼児のときの遠い記憶、関東大震災、太平洋戦争中の東京大空襲などの体験によるものだったであろう。小学校じぶん、担任の水野実先生から「君は小説家になれ」と助言され、一筋に作家を志向した。学校卒業後ただちに上京、木挽町の山本周五郎商店に住込み丁稚奉公した。質店主は洒落斎と号した一偉材で、三十六少年と競うように人文、自然科学の書物を漁り、正則英語学校や大原簿記学校に通学させるなど、文壇に自立するまで物心両面でのよき庇護者であった。一二年関東大地震で質店は罹災、二〇歳の彼は文学的新天地を求めて関西に出、地方新聞記者、雑誌記者などを経て一三年帰京、一四年日本魂社の記者となった。一五年四月号の「文藝春秋」に掲載された『須磨寺附近』が文壇出世作で、同年六月には「演劇新潮」に三幕戯曲『法林寺異記』を発表している。昭和三年夏、千葉県浦安へ転居、蒸汽船で通勤しながら劇作や散文に勉励中、突如、勤怠つねならぬかどで同社を追われてのちは文筆一本に専念した。このころ少女雑誌の編集者井口長次(山手樹一郎)を知り、四年春、東京市の募集した児童映画脚本『春はまた丘へ』が当選した。五年一一月、宮城県亘理出身の土生きよいと結婚、新居を江の島ちかくの腰越に構えるも翌六年一月には、今井達夫、松沢太平の勧めで東京大森の「馬込文士村」に転じた。やがてその狷介で一匹おおかみ的性向から、尾崎士郎に「曲軒」のニックネームを呈上される。七年の『だゝら団兵衛』(「キング」昭7・5)は、はじめて執筆したおとなむけの娯楽小説で、二〇年ごろまで、少年少女小説や探偵小説を、主として博文館や講談社系の大衆娯楽雑誌に発表している。なかで注目すべきは、昭和八年から一一年にかけ「アサヒグラフ」に発表した現代もの短編小説で、うち四編は後年の代表作『青べか物語』の原形であり、いわゆる大衆小説とは類を異にする才能が暗示されている。一五、六年ごろから「武家もの」に佳作をみるようになる。『城中の霜』(「現代」昭15・4)『松風の門』(「現代」昭15・10)『内蔵允留守』(「キング」昭15・11)『奉公身命』(「キング」昭16・8)、さらに一七年の『蕭々十三年』(「新国民」1月)、同年一一月『水戸梅譜』(「芸能文化」)、一八年一二月の『いもがゆ武士』(「講談雑誌」)、一九年の『紅梅月毛』(「富士」昭19・4)、同年五月の『あご』(「新武道」)などにおいて、みずから「山本ぶし」と名づけたいちおうの完成度を示した。けれども、最もこの時期に好評を得たのは、昭和一七年六月から二一年一一月に「婦人俱楽部」を主舞台に発表した『日本婦道記』である。第一七回直木賞に擬されると、「読者から寄せられる好評以外に、いかなる文学賞のありえようはずがない」との確信に基づいて固辞した。戦後も毎日出版文化賞、文藝春秋読者賞など、断固として辞退を繰りかえした。山本によれば、文学には「大衆」も「少数」もなく、「純」も「不純」もない。あるのはよい文学と悪い文学ばかりである。「よりよい文学を最大多数の読者へ」というのであった。その反骨ぶりに一種のポーズをみるムキがあるにせよ、生涯を通じて信念を貫き通した根性のありようは、やはり尊敬さるべきものである。戦争最末期の昭和二〇年五月、前夫人をがんでうしない、二一年一月吉村きんと再婚して横浜市中区本牧元町二三七に転居。二三年からは中区間門町の旅館間門園にこもり二九年以降は同園の別棟に移ってほとんど独居の生活で、散文にすべてを傾注した。戦後はまず、『おたふく物語』(昭24・4~26・3)『桑の木物語』(「キング」昭24・11『嘘ァつかねえ』(「オール読物」昭25・12)などの下町ものに進境をみせ、二六年の『山彦乙女』(「朝日新聞」昭26・6~7)は故郷甲州への望郷詩的ロマン小説だった。『雨あがる』(「サンデー毎日別冊」昭26・7)では浪人と庶民との交流を温かいユーモアで描く。翌二七年四月、「週刊朝日別冊」に発表した『よじょう』は「後半期の道をひらいてくれた」と自認したほどの成功作で、ヒントをラヴェルの作曲から感得したものだったと語っている。二九年七月から三三年におよぶ『樅ノ木は残った』(「日本経済新聞」昭29・7・13~30・4・21(第一部)、昭31・3・10~9・30(第二部)。さらに書加え上、下二冊として昭33・1、9 講談社)は原田甲斐の人間と生活に、新しい視点からの照射を与え、日本近代小説中での第一級の政治、歴史小説となった。五〇歳以降は一作ごとに新境地を開拓した。「一場面もの」と名づけた『深川安楽亭』(「小説新潮」昭32・1)、「平安朝もの」と呼んだ『平安喜遊集』(昭36・10 文藝春秋新社)、「岡場所もの」と総括した短編集『なんの花か薫る』(昭33・1 宝文館)および『将監さまの細みち』(「小説新潮」昭31・6)、「下町もの」と類別した『ちゃん』(「週刊朝日別冊」昭33・2)『落葉の隣り』(「小説新潮」昭34・10)『おさん』(「オール読物」昭36・2)等々で、短編作家としていくつかの未踏の峰をきわめている。奥野健男が「五十年後、百年後、代表的日本文学者として残るのではあるまいか」と評するゆえんであろう。三五年の『青べか物語』(「文藝春秋」昭35・1~12)は浦安町における見聞を主体とした小品集であり、三七年の『季節のない街』(「朝日新聞」昭37・4・1~10・1 夕刊)では、より高度の普遍化によって人間の原形質を剔抉しようとした力作だった。三九年六月から四一年一月にわたり「週刊新潮」に発表した『ながい坂』はみずからの自叙伝の試行ともいわれる。その前年『虚空遍歴』(「小説新潮」昭36・3~38・2)という大作を完成し、自己をも含めた作家像の造形に、ほとんど渾身の努力を傾けた。以降は『ながい坂』にしても『あとのない仮名』(「別冊文藝春秋」昭41・6)『枡落し』(「小説新潮」昭42・3)にせよ、かくしようもない疲労が読取れるように感じられる。また彼の基本のテーマの主柱に、無償の奉仕という困難な命題があった。昭和三四年四月の『畜生谷』(「別冊文藝春秋」)以後はとくに宗教的傾斜を強め、三八年の『さぶ』(「週刊朝日」昭38・1~7)、さらに『おごそかな渇き』(「朝日新聞日曜版」昭42・1~2)で「現代の聖書」を志すべく苦闘中、四二年二月一四日早朝、心臓衰弱と肝炎のため急逝した。人間把握の確実さ、いぶし銀を思わせる情景描写の精妙さ、つねに政治や経済に見放された弱く貧しいものの側に立ち、反権力の立場を固守して独自の文学世界を展開し、生前にまさる「山本ブーム」を呼んだのは読者層のすそ野の広さによるものであろう。
没後『山本周五郎全集』全三三巻、別巻五(昭42~45 新潮社)『全集未収録作品集』全一七巻(昭47~57 実業之日本社)が刊行。
代表作
代表作:既存全集