『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

デジタル化のその先へ

いしひといしだひとし

『日本近代文学大事典』は、今から三〇年以上昔の学部生時代には、ゼミ発表の際に必ず引用する事典類の一つであった。大学図書館の参考図書欄にあったこの事典は、人名篇の第一巻〜第三巻はすでにかなり使い込まれていて、製本が壊れかかっていたのを覚えている。
自分が大学院に進学して研究者を目指す気持になったときに、最初に買ったのもこの事典だった。私にとっては、この事典は専門家への必須アイテムだったのである。
今の学部生や大学院生、若手研究者にとってはどのような位置づけになっているのだろうか。

今回、増補改訂版の編集委員として関わらせてもらっているが、この三年間はとても大変な時期であった。編集作業がスタートしたのが、二〇二〇年二月でコロナ禍の始まりと重なった。
編集会議はコア・メンバーの会議以外はすべてオンラインで開催され、新規立項案や執筆者案などの提案もすべてメール等でやりとりして決めていった。デジタル版の編集として、まさしくICTを活用することとなったが、項目執筆の作業そのものはそう簡単にはICT活用では進まない。

私もいくつかの人名の新規および増補項目を執筆したが、その作家の経歴や著作物などはデジタルブックですべてが入手できるわけではない。大学図書館や国会図書館も閉館したり、予約入館であったりと、調査作業は大きな制約下に置かれた。
何とか図書館でコピーを取ったり、古本屋で著作物を買い集めたり、雑誌の現物を確認したりと、結局はアナログチックな作業が基本となるしかなかった。辞書作りとはそういうものなのだろう(三浦しをん『舟を編む』ではないが)。
それでも、こうしてデジタル版としてジャパンナレッジLib で公開されて検索できるようになっていることは、今後、この事典を何年にもわたって更新し続けていくことを可能にしたわけで、とても大きな変化であり、成果であると思える。

ただ、現代の学部生や院生はまずはネット上の情報にアクセスする。この事典の最大のライバルはWikipedia なのかもしれない。むろん、Wiki は匿名執筆であるため、記述内容に学問的な裏付けが不十分である。
しかし、無料で手軽に検索できるので学生たちはすぐに飛びつく。ジャパンナレッジLib に個人で加入している人はほとんどいないだろうから、大学図書館などのデータベースからアクセスすることになり、それなりの手続きと手間がかかり、利用制約もあろう。
もちろん、それでもジャパンナレッジLib で検索すれば、信頼するに足る他のデジタル辞書類も横断的に検索が可能である。そうしたことは、教員が学生たちに地道に指導していくしか道はないのだろう。増補改訂すれば利用者が増えるということではないように思える。

最後に、日本語しかできない私が抱く無責任な「夢」を記す。それは、この事典の多言語化である(留学生を多く指導している身としての実感でもある)。
勝手にAI翻訳して利用することも可能であろうが、全項目でなくてもいいので、きちんとした外国語版をデジタルで公開すれば、日本近代文学への理解もさらに広がっていくのではないかと夢想する。
そうしたグローバル展開は、日本近代文学研究が今後目指す道の一つでもあり、また、それは〈日本近代〉というこの事典が背負っている地域性と時間性をも問い直すことにはなろうとは思う。テクストはむろんのこと、事典類も日本語だけで読めればいいという時代はすでに終わっていることは確かではないか。

(東洋大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.313 2023.5.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

親子二代の編纂事業

とうやすむとうやすし

いつのことだったかどうもはっきりしないのだが、紅野敏郎を囲む会に招かれ、そこで『日本近代文学大事典』の話を聞いたことがある。

場所は帝国ホテルだったような……宴会場ではなく普通の部屋だったような……恐らく数十人が詰めかけ、満員電車の車内さながらであった。立食式だが、食べ物のあるところに行けなかった。
知った顔はほとんどなく、途方に暮れた。高井有一の顔はわかった。面識はなかった。高井有一年譜を作ったのは私ですとよほど名乗り出ようかと思ったが、結局は近寄らなかった。
曾根博義に話しかけられたような記憶もある。初対面だったかもしれない。

スピーチが始まり、早稲田の後輩または受業生とおぼしき誰かが『日本近代文学大事典』編纂当時の思い出を語った。——しめきりを過ぎても原稿を書けずにいたら紅野先生に呼び集められ、みんなで御馳走になった……食べ終ったあと原稿の遅れを厳しく叱責され、震え上がった……というような話だった。
そのあと別の人(たしか東京教育大学出身)が、——わたしも『日本近代文学大事典』に書きましたが早稲田ではないので叱られることもなく幸いでありました……などと言った。

『日本近代文学大事典』の、紅野敏郎は「編集長」であった。三十七人の「編集委員」の中で稲垣達郎が「編集委員長」、紅野敏郎が「編集長」、と第一巻の初めに目立たぬ形でしるされている。
第六巻の「あとがき」によれば、事典の企劃が始まったのは昭和四十六年。すぐ「編集長」になったのだろうか。昭和四十六年なら、紅野敏郎満四十九歳の年だ。刊行開始は昭和五十二年。奥付を見ると、第一巻から第五巻まで——つまり「人名」の三巻と「事項」の第四巻、「新聞・雑誌」の第五巻が——昭和五十二年十一月十八日という同じ日付で出ている。
次の巻が出たのは昭和五十三年三月十五日付。わづか四か月後だが、それでも《第六巻「索引その他」は、予想以上に手間取りましたが、このほど完成致しましたのでお届け致します》《ここにお詫びとお礼を申し上げます》……という、講談社と日本近代文学館連名の「ご挨拶」というほぼB6版の紙片がはさまれている。

全巻をたった四か月で出すために、どれだけ準備を重ねたことか。どんなに粘り強い説得、督促がおこなわれたことか……周到に計画していても、原稿が集まらなければ進まない。「編集長」は煩悶し、懊悩し、あるいは憤慨したかもしれない。とりわけ早稲田で遅い人がいたとしたら……「編集委員長」も早稲田、「編集長」も早稲田なのに、早稲田の人間が原稿を遅らせるとは何事か、と怒髪天を衝いたことであろう。
しかし原稿の遅い人は𠮟咤激励されただけですぐ書くものではなく、それで、飲ませ食わせたそのあとで叱るという方法が採られた……と私は推理する。紅野敏郎は自腹を切ったのではないか。

二〇一〇年、紅野敏郎を見送る会で配られた『紅野敏郎 いかがであったでしょうか。』に略年譜が載っている。一九七六年の項には、《『志賀直哉全集』の終盤と『日本近代文学大事典』の編集が重なり、高血圧症にかかる。降圧剤を服用するようになる》……と書いてあった。

『日本近代文学大事典』増補改訂版の「編集長」が紅野謙介であることは秘密ではあるまい。親子二代または三代にわたる辞書、事典の編纂あるいは修訂事業の産物に『日本国語大辞典』、『中国学芸大事典』があるが、『日本近代文学大事典』もその一つとしておぼえておきたい。

(評論家・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.312 2023.3.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

鏡としての大事典

ぐちともゆきでぐちともゆき

このたび、『日本近代文学大事典』デジタル版の編集に関わらせていただき、はからずも「私」を自省することとなった。

すでに公開されているとおり、今回のデジタル化にあたっては、もとの書籍版を単純にテキストデータにするだけでなく、旧版の記述が不十分だった項目は増補し、また必要と判断した項目は新たに立項している。
わたくしはそのうち、人名に関する新規立項目の検討チームに加えていただいた。作業のなかで検討した立項目としての人名は、いくつかの性格に区分される。
すなわち、「金子みすゞ」のように旧版以後に評価が高まった作者、「村上春樹」のように旧版以後に活動をはじめた作者、そして今年度の第二次公開予定に含まれる「談洲楼燕枝」のように、旧版編纂の段階では「日本近代文学」の枠内とは見られていなかった作者である。

最初の例はよい。そうした存在はわずかだし、評価もすでに定まっているからだ。問題は、第二・第三の例にあった。わたくし自身を厳しく省みることになったのは、その作業の渦中であった。

新規立項目を検討するには、各分野で旧版に立項されていない作者を、最終的な立項数よりも多くあげねばならない。また、立てられる数が多くない以上、不本意ながらどこかで線を引かざるをえず、そのためには何らかの基準も必要になる。
ところが、わたくしがそこで直面したのは、ある分野については選びきれないほどの名前をあげられても、別の分野ではまったく名前が思い浮ばず、そこからどう選ぶべきかもわからないという事態だった。
のみならず、検討対象からまるごと洩れていた分野さえあることに、作業のなかで気づかされたのである。

たとえば、明治中期にはいまだ隆盛を誇っていた漢文壇では、旧版から洩れた作者が少なくないものの、それをどう探してどのように選ぶべきか、見当もつかない有様だった。講談落語のような舌耕文芸や地方文壇もおなじで、明治文学者としては不学を恥じ入るよりほかはない。
短詩形文学に目をやれば、短歌と俳句は現代にいたるまで多くの名前があがっても、川柳については沈黙するばかりだった。近代にも井上剣花坊からの伝統があり、購読している『神奈川新聞』でも三壇はひとしく扱われているのに、である。

これは取りもなおさず、自身が根深いカルチュラルヒエラルキーのなかにあることを、自覚さえできていなかったという事実だった。そのことに愕然としつつ、旧版をあらためて眺めてみると、実に多岐にわたる項目が立てられていることに驚かされた。
このところ興味を持って調べている、口絵や挿絵を描いた明治の画人たち、すなわち日本画家の渡辺省亭や久保田米僊、浮世絵師の富岡永洗や尾形月耕、洋画家の小林鍾吉や中沢弘光らでさえ、しっかりと立項されていたのである。
旧版がカバーする地盤に立って仕事させてもらっているのだということを、いまさらにして実感したのだった。

先述した第二の例にあたる、昭和後期から平成期ともなると、「文学」の幅は明治大正期よりもはるかに広い。立項目として採用するにせよ、何らかの理由で今回は見送るにせよ、そこにはわたくし自身が文学をどう見てきたのかという問題が、あらわに示されていた。
また、「日本近代文学」を冠するこの事典にお名前を出してよいのか、現時点でのお仕事のまとめを永く事典の記述として残してよいのかなども、明治期の文学を研究している平素はほとんど意識されないことだった。

旧版の上で踊る自分を省みる。『日本近代文学大事典』は、「私」の姿を逆照射する鏡でもあるのだった。

(東京大学准教授)

『日本近代文学館』館報 No.311 2023.1.1掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

歴史的な〈全体〉というもの

くりはらあつしくりはらあつし

『日本近代文学大事典』(全六巻)は手もとにあって、いうまでもなく、なくてかなわぬ事典ですが、この刊行に個人的にお手伝いできるようなご縁があったわけではありません。今に至るまで、知らないことに出会えば先ずあたってみる、浅学の身としてのお付き合いです。

いつ購入したのか、特別な記憶もなく、刊行開始時にこれまでにない集成の成果、当然のこととして注文したようです。
昭和五十二年といえば、当時は私にとって二つ目の職場、金沢大学勤務時代でしたが、それ以前の近・現代文学事典は研究室・図書館にあるもの、これは自分の手もとにあるもの(もちろん、図書館等に所蔵されたことは当然ですが)となったのでした。

現在でも、開いたこともない膨大な項目が蔵されているばかりか、思えば、刊行の趣旨や凡例などすら、果たして丁寧に読んだかどうかすら、定かな記憶もなく過ごしてしまった具合なのですから、決して厳格な意味ではないことをきちんと自覚しているつもりですが、とにもかくにも、この大事典の存在を通して、(仮設的な)「日本近代文学」の〈全体〉というもののイメージ(概念)を心に抱くことが出来たようでした。

数学の名著に『零の発見』(吉田洋一)があったと思いますが、零(無)に対応する全体(無限や永遠、無量の全て)といったものも、同様に「発見」されたものでしょう。
もちろん、どんな〈全体〉だって、現実には、何等かの限定や、条件付きの範囲に制約されたそれに他ならないのですが、個々の個人も事項も作品も、全体の一部であり、全体自体が個々なしではあり得ない相関にあることを目に見えて実感されること、そして、それの全部が、その時の歴史的な存在に違いありません。
少しでも、自身の問題意識に沿って何か探究を始めれば、その全体の外側や、別種の〈全体〉が顔を覗かせてしまいます。

こんな青臭いことを書き連ねてみたのは、初版から四十年余り、この度の『日本近代文学大事典』の全面改訂にあたられた編集委員の方々の労苦には、おそらくは、既存の個々の項目の修訂・増補、そして新項目の増補という目に見える作業を通じながら、新たな〈全体〉の更新という見えにくい、しかし更なる困難な課題が課せられていたに違いないだろうと想像されたからでした。

声をかけられた既存項目の増補や、追加項目の一、二をお手伝いしながら、もうひとつ、この度の電子版での刊行について改めて考えたことは、こんなことです。

電子版による修正や増補は、機会を得て逐次新記述に改めていくことが出来るとのこと。日進月歩の研究成果で、次々に更新できるようです。
停滞することのない生きた進展が反映されるようで、個々の部分だけを新情報で確かめるには好都合ですが、歴史的な〈全体〉を切り出して見る、その中での見渡しや、相関を感じ取るには、(仮の)〈全体〉を静止して見ることも欠かせないことと思います。
今回の大改訂での増補部分、新追加部分だけでも、一旦どこかでまとめて見られるものに作っておけないか、などとも思うのでした。

(実践女子大学名誉教授・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.310 2022.11.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

「日本」「近代」「文学」を定める責任

しのざきしのざきみおこ

『日本近代文学大事典』を古本で入手したのは、修士課程の頃だったと思う。全六巻を本棚に並べると、まるでいっぱしの研究者になったかのような気がした。図書館の本にはない紙カバーの、織物のような模様や手触りも楽しかった。

まもなく訪れた修士論文口述試験の日、控室の都合か何かで、席上には本来の主査・副査の先生以外に五名もの先生方がおられた。
そのうちのおひとり、故紅野敏郎先生が私の修論をのぞき込まれ、「生命主義?……君、「生命」という雑誌を知っていますか」とおっしゃった。青くなって帰宅し『大事典』五巻をめくったが、なかった。
研究は恐ろしい、ここに載っていないこともあるのだ、と思ったことを、三〇年すぎた今でも記憶している。

その『大事典』の「増補改訂デジタル版」が、JapanKnowledge を介して公開された。大部の本が腰にこたえる年ごろゆえ、PC上で情報にアクセスできるデジタル版は、非常にありがたい。
紙の本に比べて、偶然開いたページからの収穫が減少するのはしかたないが、それでも、「前後項目」「関連項目」にワンクリックで飛べるのはとても便利だ。

さて、『大事典』は、デジタル版であるがゆえに、アクセス方法以上に大きな変化を抱えることになったと言えよう。それは可変性である。

基本的にアナログ人間である私は、学生指導の際にいまも、「文献はできるだけ紙の本に拠ること。ネット上の情報は明日は変わっているかもしれない不確かなものだから」と譲らない。
しかし、『大事典』のデジタル版は、ある項目の説明を、たとえば一九八四年(机上版刊行年)にはA氏がこのように書き、二〇二一年にはB氏がこのように書いたと記すことで、オンラインでありながら「確か」な増補改訂の情報を経緯ごと伝え得ている。
また宣伝にもあるように、このたび約一〇〇項目が新規立項された上、今後も毎年更新されていくとのことである。

他人事のように申し上げてきたが、このたびのデジタル版編集委員会の末席に私も名を連ねている。
委員会では、どのような新規項目が必要かについて繰り返し話しあわれたが、その席上、ほかの委員の方々の博識と、旧版刊行の段階でいかに多くのものが「日本近代文学」としての市民権を得ていなかったかに驚かされた。
『大事典』に載っていないものは、やはりあったし、あるのである。

このたび新規立項されたものを概観すると、単に新しい時代のものが増えたというだけでなく、女性作家の活躍、植民地との関わりについて多く補われたように感じられる。何を「日本近代文学」と見なすかは、時代と社会によって変わるのだ。

議論の中で、「カムイユカラ」を日本語表記の『アイヌ神謡集』に著した知里幸恵、若き日には朝鮮の独立運動に深く関わりながら、中年以降は日本語で「親日」的とも言われる小説を多数執筆した李光洙などを将来的に立項する案が示された。
「日本近代文学」として通常イメージされるもののすぐそばに、彼らの存在があることを授業で話してきた者として、この案は非常に嬉しかった。しかし一方で、彼らを「日本」の中に安易に組みこんでよいものか、という不安も感じた。
あるときは問答無用で「日本」の一員とし、あるときは排除し、そしてまた組み込むことの暴力性には、自覚的であらねばなるまい。事典をつくるには、「日本」「近代」「文学」の枠組みをひとまず定める必要があるが、デジタル版の持つ可変性をうまく用いて、その枠組みを常に問い直し続けられるようにと願う。

(明治学院大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.308 2022.7.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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