俳人目安帖
俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。
しづの女、汗す~竹下しづの女~
ある文芸にとって、その担い手の性別は、大きな問題であり続けてきた。少なくともこの日本では、平安の物語文学が女性の手になり、漢詩や洒落本が男性の手になることは、決定的とさえいってよい重要性をもっていた。俳句しかり。俳諧の昔から、この五七五の文芸は、男性のものとされてきた。この世が男と女で構成されている以上、俳諧の席に女性が同席することももちろんあって、江戸期にも少なからずの女流俳人がその名を残している。しかしあくまでメインストリームは男性(男流俳人?)がかたちづくり、女性は例外視されてきた。
そこに大正末から昭和初年、綺羅星のごとく女流俳人たちが出現する。そこには高浜虚子のホトトギスにおける好リードがあったのだが、長谷川かな女、竹下しづの女、杉田久女、中村汀女、星野立子といった人たちが、男性に伍して次々に第一句集を出し、女性の俳句というものに世間を瞠目させる。この中で現代へ至る昭和の女流俳人の先駆けとして、まず杉田久女を挙げる人が多い。確かに自然や日常生活へのみずみずしい眼差し、社会や家庭生活からも目をそらさない表現者としての誠実な姿勢などにおいて、彼女の存在は大きかった。しかし、その俳句作品を丹念に比較しながら読んでみると、竹下しづの女の方にこそ先駆けとしての資格があるのではないかと思えてくる(「表現史的には、竹下しづの女の句のほうが内容的にも文体的にも豊かで、生彩に富み、魁として位置づけるのにふさわしい」川名大)。俳苑叢刊シリーズ(三省堂)の一冊として出された、彼女の第一句集『颯〈はやて〉』から十四句を選んでみた。
第一句目はしづの女の代表句としてつとに名高い作品だが、内容もさることながら、漢文の「須可捨焉乎(すべからく捨つるべけんや)」を「すてちまをか」と読ませる表記の異様さがまず目を引く。師範学校の国語教師(のち図書館司書)であった彼女の教養の背景を知ることができるが、これは表記上の問題だけにとどまらず、職業婦人が俳句に手を染めることが、しづの女にとってどのようなことだったのかを暗に示しているのではないだろうか。「現今の過渡期に半ば自覚し、半ば旧習慣に捕らえられて精神的にも肉体的にも物質的にも非常なる困惑を感ぜしめられている中流の婦人の或る瞬間の叫び(心の)」と本人は自解しているが、問題はその叫びがなぜこのような表記をとらざるを得なかったかということである。
叫びはあくまで直接的な肉声である。その強さだけで理解を求めようとしても難しいのではないか。この表記は彼女なりの、その工夫と考えられるのだ。すでに述べたように漢文も俳句も歴史的には男性のものであった。その同じ土俵に女であるこの私も上がってやろうじゃないの、といったことではなかったか。つまり女性であることに甘えていない。その意志表示が思わずこの表記を彼女に思いつかせたのではないか。
だからこの句は内容はまるで異なるといっても、彼女の中では「汗臭き鈍の男の群に伍す」に直結しているのである。鈍といわれようと何といわれようとも、とにかく額に汗して働く男たちに自分も伍していくのだという決意。これはかな女、久女、汀女、立子などの同時代の女流俳人にはあまり感じられないものだ。
現代女流俳句の源流に、これだけ社会や仕事に自覚的であった俳人がいたことを忘れてはならないだろう。
2005-02-14 公開