「歴史」カテゴリの記事一覧
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三嶋大社(日本歴史地名大系)
[現]三島市大宮町二丁目。旧東海道(県道沼津―三島線)に南面して鎮座。祭神は大山祇神・事代主神の二神。旧官幣大社。古代は式内社、中世は伊豆国一宮として武士の崇敬を受け、近世は三島町の発展とともに庶民の信仰を集めた。本地仏は薬師仏(「新千載集」「北条記」など)であった。

弥彦神社(日本歴史地名大系)
[現]弥彦村弥彦。弥彦山の東麓に鎮座する越後一宮。正式には「いやひこ」とよばれ、伊弥彦・伊夜比古などとも記される。旧国幣中社。祭神は現在は天香語山命だが、「万葉集」巻一六の歌などから本来は弥彦山を神体とする伊夜比古神であろうか。明神・弥彦明神と記す例もある。

江島神社(日本歴史地名大系)
[現]藤沢市江の島二丁目。相模湾に囲まれた江の島にある。江島弁才天とも称し、奥津宮(祭神多紀理毘売命)・中津宮(祭神市寸島比売命)・辺津宮(祭神田寸津比売命)・御窟(祭神天照皇大神・須佐之男命)の総称。もとは本宮(古くは御窟が本宮)・上之宮(現中津宮)・下之宮(現辺津宮)

鹿島神宮(改訂新版・世界大百科事典)
茨城県鹿嶋市に鎮座。常陸国の一宮。旧官幣大社。祭神は武甕槌神(建御雷神)。《常陸国風土記》には649年(大化5)に神郡がおかれ,そこにあった天の大神の社,坂戸の社,沼尾の社をあわせて〈香島の天の大神〉といい,〈豊香島の宮〉と名づけられ,また崇神天皇のとき大刀,鉾,鉄弓,鞍

成田山新勝寺(日本歴史地名大系)
[現]成田市成田。正しくは成田山明王院神護新勝寺と号するが、一般には成田山・成田不動の名で知られる。関東三不動の一。真言宗智山派の大本山で、本尊は木造不動明王(国指定重要文化財)。縁起によると、平将門が東国において反乱を起こしたとき(将門の乱)、朱雀天皇は将門討伐の

香取神宮(国史大辞典)
千葉県佐原市香取に鎮座。旧官幣大社。下総国の一宮。祭神は経津主神。古代の地形では東国の東端、大河の河口に近く、湖と入江が多く、しかも大洋に臨む地にあって、鹿島とならんで大和朝廷が早くから深い関係を持った神社である。カトリの名義は、『日本書紀』神代天孫降臨章第二の一書に

飛鳥寺(改訂新版・世界大百科事典)
奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。法興寺,本元興寺ともいう。蘇我馬子が創立した日本最初の本格的な寺院で,百済から招いた工人らが参画して,596年(推古4)ほぼ造営を終え,606年には仏師鞍作止利が作った本尊の丈六釈迦如来像が安置されている。古都飛鳥の地に〈大寺〉と

素戔嗚尊・須佐之男命(日本国語大辞典)
記紀・風土記などに見える神。「古事記」では、伊邪那岐(いざなぎ)命のみの子とされるが、「日本書紀」では、伊弉諾・伊弉冉(いざなき・いざなみ)二神の間に生まれたとされる。天照大神の弟。

高御産巣日神・高皇産霊神(日本国語大辞典)
(「たか」「み」は美称、「むす」は生ずる、「ひ」は霊威の意。生成力の神格化。「たかみむすびのかみ」とも)記紀などに見える神。「古事記」では、天地が初めて出現した時、天之御中主神についで、神産巣日神とともに現われた造化三神の一つ。

伊邪那岐命・伊弉諾尊(日本国語大辞典・日本架空伝承人名事典)
(古くは「いざなきのみこと」か)記紀などに見える神。国生みを行なった男神。神代七代の最後の神。「古事記」によれば、天神の命で、伊邪那美命とともに大八洲の国をはじめ、山川草木や万物を司る神々を生み、最後に天照大神、月読命、須佐之男命を生んで、治めさせる国々を定めた。

天照大神・天照大御神(日本国語大辞典)
(「あまてらすおおんかみ」とも)記紀などに見える、王権を保証する天上他界の主神。日の神。伊奘諾尊の娘。誕生には、水生・胎生・鏡生の三伝承がある。弟の素戔嗚尊の粗暴なふるまいを怒って天の岩屋戸に隠れた神話や、日月離反の神話が伝わる。

はに‐わ 【埴輪】(日本国語大辞典)
古墳の墳丘上に立て並べた素焼の土製品。円筒埴輪・形象埴輪に二大別され、形象埴輪は家形・器具器材・動物・人物など多様である。古墳に供えた器台、壺などが儀器化し、発生したという説が有力。

ふん‐ぼ 【墳墓】(日本国語大辞典)
(「墳」は盛り土のある墓、「墓」は盛り土のない墓所の意)(1)死体や遺骨・遺品などを埋めて供養する所。木や石などを立て、墓じるしとしたもの。また、日本では古墳、飛鳥・奈良時代の火葬墓、中国では墳丘をさす。はか。つか。ぼち。

百万塔(改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
奈良時代に作られた轆轤びき木製三重小塔で,塔身部に〈陀羅尼経〉を納めている。相輪部と塔身部に分かれ,それぞれ一木を用いて削り出す。大きさは個体によって異なるが,標準的なもので総高21.4cm,基底部径10.5cm,塔身部のみの高さは13.4cmある。塔身部の軸部上端を筒状にえぐり

古語拾遺(改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
平安初期に書かれた歴史書。著者は斎部広成。1巻。807年(大同2)2月13日完成。忌部(斎部)氏は大和朝廷時代には中臣氏と並んで祭祀を担当していたが,大化改新後は中臣氏から藤原氏が出て政界で有力になると,中臣氏も奈良時代には祭祀関係の要職を独占するようになった。

新撰姓氏録(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
815年(弘仁6)に編纂された古代氏族の系譜書。本書の編纂は799年(延暦18)、諸国に本系帳の撰上を命じたことに始まる。814年に至り万多親王、藤原園人、同緒嗣らによって完成されたが、さらに源朝臣の条などを追加し、不備な点を補って翌年に

仁徳天皇(世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・日本古典文学全集)
応神天皇につぐ16代の天皇とされる。応神の子,履中,反正,允恭天皇の父。諱(いみな)はオホサザキ(大雀,大鷦鷯),宮は難波高津宮,陵は和泉百舌鳥耳原(もずのみみはら)中陵。天皇は幼にして聡明,壮におよび仁慈,ために〈仁徳〉と諡(おくりな)されたが

シャクシャインの戦い(世界大百科事典)
1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方

禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を

天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから

大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。

生田万の乱(国史大辞典)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。

島原の乱(島原・天草一揆)(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代初期、松倉勝家領の肥前国島原と同国唐津寺沢堅高領の肥後国天草の領民が連帯し、少年益田(天草)四郎時貞を盟主に蜂起し、島原の原城にたてこもって幕府・諸藩兵と戦い、全員誅殺された大農民一揆。天草一揆ともいう。この一揆に対する

林羅山(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸時代初期の儒学者。江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖。名は信勝または忠、字は子信、通称ははじめ又三郎、のち道春という僧号で呼ばれた。羅山とは儒学者としての号で,中国広東省の羅浮山で宋代の学者が『春秋』を研学したとの故事に基づき

関ヶ原の戦い(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。 [岡本良一]三成挙兵 1598年(慶長3)豊臣秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の

方広寺鐘銘事件(国史大辞典)
豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月

大久保利通(大久保一蔵)(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三〇 - 七八 明治維新の指導的政治家。諱は利済のち利通と改む。幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称し、甲東と号す。天保元年(一八三〇)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として、鹿児島城下加治屋町に生まれる。

大山綱良(大山格之助)(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二五 - 七七 幕末・維新期の薩摩国鹿児島藩士。初代鹿児島県令。通称は格之助、角右衛門ともいう。文政八年(一八二五)十一月六日、鹿児島藩士樺山善之進の次子として鹿児島に生まれ、のち大山四郎助の養子となった。家禄百三十六石。

西郷隆盛(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二七 - 七七 明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の

禅林寺(永観堂)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
京都市左京区永観堂町にある。浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号は聖衆来迎山。一般に永観堂と呼ばれている。空海の高弟真紹が仁寿三年(八五三)藤原関雄の山荘を買い大日如来などの五像を安置し、貞観五年(八六三)定額寺に預かり、禅林寺の名を