1. セザンヌ画像
日本大百科全書
通じて、セザンヌの影響はまずゴーギャン、E・ベルナール、そしてナビ派へと及んでゆく。 1890年から数年の間に『赤いチョッキの少年』や『トランプをする人びと』な
2. セザンヌ(Paul Cézanne)
世界大百科事典
円筒,球,円錐によって処理する〉(エミール・ベルナールあての手紙。1904年4月15日)といったセザンヌの分析的な思考は,キュビスムの画家たちに根底的な影響を与
3. セザンヌ
日本国語大辞典
(Paul Cézanne ポール─)フランスの画家。初め印象派に加わったが、のち、印象派を越えて自然の対象を幾何学的形態に還元し、調和的な色彩による構築的な画
4. セザンヌ(Cézanne, Paul)
世界人名大辞典
〔1839.1.19~1906.10.22〕フランスの画家.南仏のエクサンプロヴァンスに生まれる.生地の法科大学に通っていたが,画家を目指してパリに出る[186
5. セザンヌ(年譜)
日本大百科全書
18391月19日、南フランス、エクサン・プロバンスに裕福な帽子商の長男として生まれる1852生地エクスの中学校に入学。ここでゾラと知り合う185811月、大学
6. セザンヌ『エスタックから眺めたマルセイユ湾』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1885年ころ 油彩メトロポリタン美術館所蔵
7. セザンヌ『温室のセザンヌ夫人』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1891年 油彩メトロポリタン美術館所蔵
8. セザンヌ『サント・ビクトワール山』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1902~1906年ころ 油彩メトロポリタン美術館所蔵
9. セザンヌ『水浴図』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1874~1875年 油彩メトロポリタン美術館所蔵
10. セザンヌ『トランプをする人びと』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1890~1892年 油彩メトロポリタン美術館所蔵
11. セザンヌ『リンゴとサクラソウの鉢のある静物』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1890年ころ 油彩メトロポリタン美術館所蔵
12. セザンヌ『リンゴの籠』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1893年ころ 油彩シカゴ美術研究所所蔵
13. アグエーリ(Aguéli, Ivan)
世界人名大辞典
〔1869.5.24~1917.10.1〕スウェーデンの画家.サラ生まれ.総合主義の影響を受けたスウェーデンで最初の画家.空間を単純化し微妙な色調で表現した.ロ
14. アブストラクト
日本国語大辞典
面、色の配合によって構成するもの。抽象美術。*近代絵画〔1954~58〕〈小林秀雄〉セザンヌ・四「セザンヌをキュービスムやアブストラクトの運動の先駆者とする一面
15. 有島生馬
日本大百科全書
校、のちパリで学ぶほか各国を旅行する。1910年帰国して『白樺しらかば』誌の創刊同人となり、セザンヌほか欧州新美術の紹介に努める。1914年(大正3)同志と二科
16. 有島生馬
世界大百科事典
ロリュス・デュランに師事した後,パリでR.コラン,プリネーに学び,彫刻の修業もする。07年のセザンヌの回顧展に感銘を受け,以降アカデミックな様式を離れ,後期印象
17. ありしまいくま【有島生馬】
国史大辞典
』を大正二年(一九一三)に刊行した。画業においては後期印象派の影響を強くうけ、「画家ポール=セザンヌ」(『白樺』明治四十三年)を紹介、同人の応援を得、滞欧記念展
18. ありしま-いくま【有島生馬】画像
日本人名大辞典
(とん)の兄。藤島武二に洋画をまなび,ヨーロッパに留学後「白樺」の同人となり,セザンヌを紹介した。二科会,一水会を創立。昭和10年帝国美術院会員,39年文化功労
19. 有島 生馬
日本近代文学大事典
中の作品『羅馬にて』(新体詩三編)を発表。第二、三号にはつづけて『画家ポール・セザンヌ』を発表し、わが国にセザンヌを紹介するとともに、ようやくその本領を発揮した
20. アングル画像
日本大百科全書
好んだボードレールがアングルを評価したのも、この「奇異なもの」によってである。このアングルの多様性や構図は、セザンヌたちによっても、またキュビスムやシュルレアリ
21. アンデパンダン展
日本大百科全書
今日に至っている。初期のアンデパンダン展の推進者のなかには、ルドン、スーラ、シニャックらがあり、ゴッホ、セザンヌ、アンリ・ルソー、ロートレック、マチスらもしばし
22. イギリス美術
世界大百科事典
るが,様式の伝播という点からすれば,大陸諸国との間に時間的なずれがしばしば認められる(マネ,セザンヌ,ゴッホ,ゴーギャンなどの作品がイギリスで初めて本格的に紹介
23. 印象主義画像
日本大百科全書
ほぼ等分に描き、またセザンヌとルノワールは水浴図をも多作した。グループの様式上の等質性と作風の円熟がもっともよくみられたのは、ルノワールが『ムーラン・ド・ラ・ギ
24. 印象主義画像
世界大百科事典
にアカデミー・シュイスAcadémie Suisseでかねてからモネと知り合っていたピサロ,セザンヌが合流した。ピサロを通じてモリゾも参加し,彼らはマネやバジー
25. いんしょう‐は[インシャウ‥]【印象派】
日本国語大辞典
記者が嘲笑的に名づけたのが名の由来という。マネ、モネに始まり、ドガ、ピサロ、シスレー、また、セザンヌ、ゴッホ、ルノアールらもこれに属する。以後の芸術全般に大きな
26. 新版 印象派 2ページ
文庫クセジュ
[図版]口絵7 ゴッホ《星月夜》,1889年,ニュー・ヨーク,近代美術館 [図版]口絵8 セザンヌ《大きな松のあるサント=ヴィクトワール山》,1887年頃,ロ
27. 新版 印象派 4ページ
文庫クセジュ
図版3:マネ《フォリ・ベルジェールのバー》,ロンドン,コートールド美術研究所(82ページ) 図版4:セザンヌ《ポール・セザンヌ,画家の息子の肖像》,パリ,オラン
28. 新版 印象派 6ページ
文庫クセジュ
ネ、それに対して「ロマン派」のセザンヌ、教養はあっても無骨で、これみよがしに粗野な態度を取るセザンヌ、その飽くなき探求ゆえに二十世紀絵画の生みの親とされるセザン
29. 新版 印象派 8ページ
文庫クセジュ
賞賛していた。マネもまた、ベラスケスやゴヤ、そしてフランドル派の画家たちから霊感を汲み取った。セザンヌは「プッサンがなしとげたことを、自然に即してやろう」とした
30. 新版 印象派 10ページ
文庫クセジュ
モネのエネルギッシュで分割的なタッチ、ドガの繊細鋭利なデッサン、モリゾの流れるような筆致、ピサロの堅固な手法、セザンヌの建築的構成、これらを結びつけるものはいっ
31. 新版 印象派 11ページ
文庫クセジュ
表されたのは一八六三年であり、一方、モネが栄光の絶頂で世を去ったのは一九二六年のことである。セザンヌと同様、モネもまた、印象主義に続いて、その発展形態として登場
32. 新版 印象派 19ページ
文庫クセジュ
ルノワール、彼らは皆、絵画の革新をめざすに先立って、古典絵画の巨匠たちに深く学んだのである。ピサロとセザンヌはアカデミー・スイスで知り合った。この画学校は、元モ
33. 新版 印象派 21ページ
文庫クセジュ
、ともに野外で制作した。 セザンヌがパリに出てきたのも、一八六二年のことであった。国立美術学校を受験するための上京だったが、結果は不合格であった。ポール・セザ
34. 新版 印象派 22ページ
文庫クセジュ
市立のデッサン学校に通った。やがて鉄道会社に職を得、同時にアカデミー・スイスに通うことになり、そこでピサロとセザンヌに出会った。一八六三年には落選者展に出品した
35. 新版 印象派 23ページ
文庫クセジュ
将来の見込みのない屑の山に埋もれて、ヨンキント、ピサロ、ファンタン=ラトゥール、ギヨーマン、そしてセザンヌの絵を見ることもできたのである。とくに顰蹙を買ったのは
36. 新版 印象派 26ページ
文庫クセジュ
六六年、ワシントン、ナショナル・ギャラリー)は、それを所有する美術館の誇りとなっている。若きセザンヌは早くも静物画を得意なジャンルとしており、のちに彼の作風とな
37. 新版 印象派 27ページ
文庫クセジュ
歴史画の特性を遺憾なく発揮している。すなわち、壮大なスケール、人物群像、雄弁な身振り。 ポール・セザンヌも抒情と情念に満ちた作品を描いている。たとえば、《誘拐
38. 新版 印象派 30ページ
文庫クセジュ
それから数年後、セザンヌは《現代版オランピア》(一八七三~一八七四年、パリ、オルセー美術館)に取り組んだが、この絵では、マネが画面から消し去った人物、すなわち
39. 新版 印象派 31ページ
文庫クセジュ
描いているが、その画面全体が灰色と黒のひそやかなハーモニーに包まれている。セザンヌが叔父ドミニックや父親(《ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像》、一八六六年、ワ
40. 新版 印象派 45ページ
文庫クセジュ
一八七〇年のサロンからデュラン=リュエルとの出会いまで 普仏戦争前夜、一八七〇年のサロンで、モネとセザンヌの作品は落選した。ルノワールは、ドラクロワ風の作品《
41. 新版 印象派 46ページ
文庫クセジュ
ボルドー近くのリブルヌで馬の飼育の任務に就いたために、前線で戦うことを免れた。ベルト・モリゾはパリにとどまり、セザンヌはエスタックで黙々と制作していた。英国籍を
42. 新版 印象派 47ページ
文庫クセジュ
シスレーもまた、それに近い作品をルーヴシエンヌで描いていた。ピサロは、ポントワーズで、セザンヌとともに制作していた。セザンヌは、そこから数キロのところにあるオー
43. 新版 印象派 48ページ
文庫クセジュ
拒否された。ブーダンもこのグルーブ展に加わったが、おそらくモネに頼まれたのだろう。ピサロもまた、セザンヌとギヨーマンに参加を呼びかけた。
44. 新版 印象派 49ページ
文庫クセジュ
ナショナル・ギャラリー)と《桟敷席》(一八七四年、ロンドン、コートールド美術研究所)を展示した。セザンヌの出品作のなかには《現代版オランピア、習作》(一八七二~
45. 新版 印象派 50ページ
文庫クセジュ
モネの《昼食》に対してはやや毒舌をひかえたあと、最後にセザンヌの《現代版オランピア》に向かう。「マネの《オランピア》は覚えておいでですか? じつを言って、セザン
46. 新版 印象派 58ページ
文庫クセジュ
クローゼル通りの絵や画材でごったがえすタンギーの店で、ショケはセザンヌの作品に目をとめた。ほどなくセザンヌ当人とも知り合い、セザンヌはショケにモネを紹介した。そ
47. 新版 印象派 59ページ
文庫クセジュ
出展者の数は減ったものの、作品数は増えた。サロンで落選したマネも、自分のアトリエで個展を開いた。セザンヌもサロンに応募したが、またしても落選した。ブーダンとギヨ
48. 新版 印象派 62ページ
文庫クセジュ
景画が入選を果たした。一八七九年、彼のコレクションには三枚のピサロが含まれていた。ピサロは、セザンヌに対してそうだったように、ゴーガンに対しても、先導者の役割を
49. 新版 印象派 65ページ
文庫クセジュ
た。第四回印象派展は、一八七九年、オペラ座通りで開かれたが、ルノワールだけでなく、シスレーやセザンヌも参加しなかった。ベルト・モリゾも、娘のジュリー・マネが四カ
50. 新版 印象派 68ページ
文庫クセジュ
第六回展をボイコットしたカイユボットは、思い直して、当初の主要メンバー、つまりモネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、シスレー、モリゾを中心とし、それにゴーガン、カ