国史大辞典のサンプルページ一覧
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重陽(世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
9月9日の節供。陽数(奇数)の極である9が月と日に重なることからいい,重九(ちようきゆう)ともいう。中国行事の渡来したもので,邪気を避け,寒さに向かっての無病息災,防寒の意味もあった。菊花宴ともいい,685年(天武14)を起源とするが,嵯峨天皇のときには,神泉苑に文人を召して詩を作り,宴が行われていることが見え

七草(世界大百科事典・日本国語大辞典・日本大百科全書・国史大辞典)
七種とも書き,春の七草と秋の七草がある。春の七草〈せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけのざ,すずな,すずしろ,これや七草〉とうたわれたように,これらを春の七草と称し,この,ごぎょうはハハコグサ,はこべらはハコベ,ほとけのざはタビラコ,すずなはカブ,すずしろは大根とされる

入梅(日本大百科全書・日本国語大辞典・国史大辞典)
雑節の一つ。梅雨の時期に入る日をいい、暦にはその日を記す。旧暦時代には五月節芒種(ぼうしゅ)に入って第一の壬(みずのえ)の日を入梅とする説を用いた。現行暦では太陽の視黄経が80度に達した日をもって入梅とし、太陽暦の6月11日ごろにあたる。この日から梅雨が始まるわけではなく、およそこのころから雨期に入ることを

松平定信(国史大辞典・世界大百科事典)
一七五八-一八二九。江戸時代後期の将軍補佐兼老中。幼名は賢丸、字は貞卿、号は旭峯・楽翁・風月翁・花月翁など。徳川(田安)宗武の第三子(八代将軍徳川吉宗の孫)。宝暦八年(一七五八)十二月二十七日江戸田安邸に生まる。田安家血統の絶える恐れがあるにもかかわらず安永三年(一七七四)白河藩松平定邦の養子を命じられた。

太平記(国史大辞典・世界大百科事典・日本古典文学全集・日本国語大辞典)
南北朝内乱期を描いた軍記物語。四十巻。成立と作者については明らかでないが、『難太平記』の記述によれば、暦応元年(延元三、一三三八)から観応元年(正平五、一三五〇)までの間に、最初の形が成立したと考えられる。その後何段階かの書き継ぎや添削が行われて

枕草子(日本古典文学全集・世界大百科事典・国史大辞典)
一春はあけぼの。だんだん白んでくっきりとしてゆく山ぎわが、少し赤みを帯び明るくなって、紫がかった雲が細く横になびいているの。夏は何といっても夜だ。月のあるころは言うまでもない、闇もやはり、蛍がたくさん入り乱れて飛びかっているの。また、たくさんではなく

宇治拾遺物語(国史大辞典・新編 日本古典文学全集・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉時代の説話集。編者不詳。古写本・古活字本は二巻か、もしくはそれを更に四巻・八巻にわけてあるが、万治二年(一六五九)刊の流布本は十五巻。前者が本来の形であろう。建暦二年(一二一二)ころ成立の『古事談』から話を採っていることと

仏教(国史大辞典・世界大百科事典)
仏陀と称せられる歴史的人物ゴータマの創始した宗教。〔開祖ゴータマの生涯〕仏教の開祖は姓をゴータマGotama(瞿曇(くどん))、個人名をシッダッタSiddhatthaという。前四六三年ごろ(他の学説によるとそれよりも約一世紀以前)に釈迦(パーリPāli語でŚākiya、サンスクリットSanskrit語でSākya)

徒然草(国史大辞典・世界大百科事典)
鎌倉時代末期から南北朝時代の初めにかけて成立した随筆集。兼好(俗名卜部兼好)著。上下二巻。北村季吟の『徒然草文段抄』以後、序段以下二百四十三段に章段を分けて記すようになった。書名は、「つれづれ」、すなわち、することもない生活の退屈さ・寂しさを紛らわし

明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。

長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。

明正天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一六二三-九六。一六二九―四三在位。幼称は女一宮。諱は興子。後水尾天皇の第二皇女、母は皇后和子(東福門院)。嫡出の第一子で、将軍徳川秀忠の外孫にあたる。元和九年(一六二三)十一月十九日誕生。寛永六年(一六二九)十月二十九日内親王宣下が行われ、ついで十一月八日父天皇の突然の譲位決行により受禅

元明天皇(国史大辞典)
六六一-七二一。七〇七―一五在位。天智天皇の第四皇女。諱は阿陪(阿閉)。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘姪娘。斉明天皇七年(六六一)生まれる。草壁皇子の妃となり、文武・元正両天皇と吉備内親王を生む。慶雲四年(七〇七)六月文武天皇崩御し、七月十七日遺詔によって即位。これは不改常典による嫡子相承実現のための中継ぎ

元正天皇(国史大辞典・世界大百科事典・日本人名大辞典)
六八〇 - 七四八 七一五―二四在位。草壁皇子の皇女。諱は氷高(日高)。新家(にいのみ)皇女ともいう。母は元明天皇。天武天皇九年(六八〇)に生まれる。霊亀元年(七一五)正月、一品を授けられたが、同年九月二日皇太子首皇子が幼年のため元明天皇の譲りをうけて

持統天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
六四五-七〇二。六八六―九七在位。ただし正式即位は六九〇年。白鳳時代の女帝。諱は高天原広野姫、大倭根子天之広野日女ともいう。天智天皇の第二女、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘。大化元年(六四五)誕生。斉明天皇三年(六五七)十三歳で叔父の大海人皇子(天武天皇)と結婚。

皇極天皇(斉明天皇)(国史大辞典)
五九四-六六一。六四二―四五在位。のち重祚して斉明天皇となり、六五五―六一在位。敏達天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫。推古天皇二年(五九四)茅渟王を父、吉備姫王を母として生まれる。諱は宝皇女。天豊財重日足姫尊と称す。

後桜町天皇(国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典)
一七四〇-一八一三。一七六二―七〇在位。元文五年(一七四〇)八月三日桜町天皇の第二皇女として誕生。母は関白二条吉忠の女、皇太后舎子(青綺門院)である。諱は智子、幼称は初め以茶宮、のちに緋宮という。寛延三年(一七五〇)三月親王宣下。宝暦十二年(一七六二)七月桃園天皇の崩御に際し

豊臣秀頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り

冬至(日本国語大辞典・国史大辞典・世界大百科事典)
二十四節気の一つ。太陽の黄経が二七〇度のときをいう。新暦一二月二二日頃。旧暦では一一月の中に当たる。この日、北半球では太陽の南中高度が最低で昼間が最も短い。この日から日照時間が伸びるので、生命力が復活する節日として祝う習慣があった。

推古天皇(国史大辞典)
五九二―六二八在位。和風諡号は豊御食炊屋姫尊。諱は額田部。欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の娘堅塩媛。用明天皇の同母妹。崇峻天皇の異母姉。五五四年生まれる。七一年皇太子(敏達天皇)妃となり、七六年、前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられた。時に二十三歳。

光格天皇(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典)
一七七一-一八四〇 一七七九―一八一七在位。明和八年(一七七一)八月十五日東山天皇の皇孫である閑院宮典仁親王の第六王子として誕生。生母は贈従一位岩室磐代である。幼称は祐宮、諱は初め師仁、ついで兼仁と改められた。誕生の翌年聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であったが

皇室典範(国史大辞典)
皇室および皇族の基本であり、皇位継承をはじめ、結婚・摂政・皇族などが定められている。明治二十二年(一八八九)非公式に発表され、明治四十年と大正七年(一九一八)に増補を加えた。第二次世界大戦後の昭和二十一年(一九四六)、現在のものに改正されている。

関白(国史大辞典)
万機に関与する重職で摂政に類似する。したがって摂政と合わせて摂関・摂ろく・一の人・一の所などと称し、執柄・博陸・殿下などの唐名がある。関白の語は『漢書』霍公伝に、宣帝が諸事まず霍光に関白してから奏上せしめたとみえているが

摂政(国史大辞典)
天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。関白に類する職として関白とともに摂関といい、関白と同じく、摂ろく・執柄・博陸などの唐名があり、その地位に因んで一の人・一の所などと称され、殿下ともいわれた

藤原不比等(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
六五九-七二〇奈良時代の政治家。鎌足の第二子。史とも書く。母を車持国子の女与志古娘とし、不比等を天智天皇の皇胤とする説があるが、信用しがたい。斉明天皇五年(六五九)生まれる。幼時山科の田辺史大隅の家に養われたといわれ

沙汰(日本国語大辞典・全文全訳古語辞典・国史大辞典)
焼いた薩摩芋。《季・冬》*評判記・秘伝書〔1655頃〕下ほんの事「やきぐり、やきいもは、いきくさくなる也」*俳諧・骨書〔1787〕上「朝の月狩の竹鑓手束弓〈青蘿〉 来かかるものが焼芋を喰ふ〈樗良〉」

黄表紙(日本国語大辞典・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
黄色の表紙。草双紙(くさぞうし)の一つ。江戸後期、安永四年(一七七五)から文化三年(一八〇六)頃にかけて多く刊行され、黄色の表紙で、内容はしゃれ、滑稽、風刺をおりまぜた大人むきの絵入り小説

東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが

興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)

社会学(国史大辞典)
人間の社会的行為を最も基本的単位とする社会の構造や変動を、地位・役割、関係、集団・組織、階級・階層、制度、体制などの概念を用いながら、理論的、実証的に分析し、社会を構成する一定の法則性の発見をめざすとともに、諸社会問題の解決に貢献するという応用的領域をも含んだ